★個人ウォーク 「大和郡山から西ノ京を歩く」 12/24
各種団体のイベント・ウォークや所属の例会ウォーク等は、あらかじめ日時が決まっており、寒暑の厳しい時でも、多少の雨風でも、催行されますので、自分の自由がききません。しかし、個人でのウォークや山行は、天候の良い日に、都合の良い時間に、足の向くまま気の向くまま、好きな場所へ歩きに行けばよいので、また途中で止めるのも良しで、私には一番合っている楽しみ方です。今月は仲々すっきりした日が少なくて、ウォーク距離は先月の半分以下です。本日は次第に太陽が差し込んできましたので、10時半頃、ウォーク距離を伸ばすために出掛けました。
丁度1年前の12/25には「大和郡山を歩いて」いました。今日は大和郡山市内を散策後、西ノ京を経て奈良市内まで戻ってくるコースだと、約15kmほどの歩程ですので、ここへ行くことにしました。JRで郡山駅まで行き、11時、ここからウォーク・スタートです。薬園八幡神社を経て、源九郎稲荷神社 に立ち寄りました。源義経が頼朝軍に追われ、京都から吉野山に逃げたあとを、足の遅い静御前が追いかけます。一匹の白狐が義経の家来・佐藤忠信に化けてお供し、道中、静御前を守り、無事義経のもとに送り届けます。義経は白狐の忠義に感服しますが、頼朝軍の追跡は激しく、義経一行は平泉の藤原秀衡を頼るべく、更に奥州へと逃れることになります。義経は白狐と別れるにあたって、自分の名を与えて「源九郎」と名乗ることを許しました。このくだりは、歌舞伎「義経千本桜」でよく知られているところです。この神社は、その白狐=源九郎を祀っていて、六代目・中村勘九郎さんはじめ、多くの歌舞伎役者さんたちが参詣されています。
各種団体のイベント・ウォークや所属の例会ウォーク等は、あらかじめ日時が決まっており、寒暑の厳しい時でも、多少の雨風でも、催行されますので、自分の自由がききません。しかし、個人でのウォークや山行は、天候の良い日に、都合の良い時間に、足の向くまま気の向くまま、好きな場所へ歩きに行けばよいので、また途中で止めるのも良しで、私には一番合っている楽しみ方です。今月は仲々すっきりした日が少なくて、ウォーク距離は先月の半分以下です。本日は次第に太陽が差し込んできましたので、10時半頃、ウォーク距離を伸ばすために出掛けました。
丁度1年前の12/25には「大和郡山を歩いて」いました。今日は大和郡山市内を散策後、西ノ京を経て奈良市内まで戻ってくるコースだと、約15kmほどの歩程ですので、ここへ行くことにしました。JRで郡山駅まで行き、11時、ここからウォーク・スタートです。薬園八幡神社を経て、源九郎稲荷神社 に立ち寄りました。源義経が頼朝軍に追われ、京都から吉野山に逃げたあとを、足の遅い静御前が追いかけます。一匹の白狐が義経の家来・佐藤忠信に化けてお供し、道中、静御前を守り、無事義経のもとに送り届けます。義経は白狐の忠義に感服しますが、頼朝軍の追跡は激しく、義経一行は平泉の藤原秀衡を頼るべく、更に奥州へと逃れることになります。義経は白狐と別れるにあたって、自分の名を与えて「源九郎」と名乗ることを許しました。このくだりは、歌舞伎「義経千本桜」でよく知られているところです。この神社は、その白狐=源九郎を祀っていて、六代目・中村勘九郎さんはじめ、多くの歌舞伎役者さんたちが参詣されています。
源九郎稲荷神社の拝殿前に建つ狛犬ならぬ 狛狐 です。右側の阿形の狛狐は玉を咥えているのですが、大きく口をあけて笑っているように見え、狛犬マニアには結構人気のある狛犬(狛狐)なんです。台座に刻銘されている「天保6年(1835)」は読めるのですが、それ以外の文字が読めず、制作者は分かりません。
郡山八幡神社に立ち寄った後、柳町商店街を散策します。金魚の電話ボックスです。郡山は金魚の町として有名ですが、中でもこの電話ボックスは人気スポットでもあります。
ねこまど。柳町の道路に面した民家の窓。額縁風にして、3匹のネコが日向ぼっこしているのが見られます。
大和郡山城・大手門。豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(大和大納言)が居城とした城で、110余万石を有する大城でした。秀長は温厚、真面目、寛容であり、豊臣秀吉の縁の下の力持ち的存在であり、良きブレーキ役でもありましたが、52歳で没すると、豊臣政権は秀吉の暴走で自滅していくことになります。歴史に”もし”はありませんが、もし秀長が長命を保っていたならば、家康に豊臣家を滅ぼされる事は無かったと言われています。暖かい日差しの中、城内庭園で昼食としました。
昼食後は、大和郡山市の北端・平城京西市跡から 秋篠川 の遊歩道沿いに奈良市西ノ京に向けて歩きます。
秋篠川から見た 薬師寺。左は西塔、右は修理中の東塔(国宝)の覆い屋です(平成32年3月完了予定)。西ノ京に入り、薬師寺を訪ねた後‥
薬師寺北側にある 玄奘(げんじょう)三蔵院伽藍 です。玄奘三蔵は、「西遊記」の三蔵法師として有名な中国唐時代の歴史上の僧侶です。三蔵の分骨を祀っていて、平山郁夫画伯の玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、期間限定(年4回)で見ることが出来ます。
鑑真和尚で有名な 唐招提寺の南大門 を過ぎ‥
第11代・垂仁(すいにん)天皇陵(考古学名は宝来山古墳)に向かいます。古墳時代前期(4世紀後半頃)に築造された前方後円墳で、墳丘長227mは、古墳の大きさでは全国20位です。
垂仁天皇・菅原伏見東陵。写真には写っていませんが、この水壕の中に小さな小島があり‥
その小島は 垂仁天皇の陪塚(ばいづか:主人の墓に伴う従者の墓)=田道間守(たじまもり)の墓 とされています。田道間守は、垂仁天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)=橘(タチバナ)」を求めに常世国に派遣されますが、苦節10年の末、非時香菓を手に入れ、戻ってきた時には既に垂仁天皇は亡くなっておられました。田道間守は、その実を亡き天皇に捧げたのち、あとを追って殉死したと云われています。
非時香菓(ときじくのかくのみ)=タチバナ(橘)です。この写真は午前中に立ち寄った源九郎稲荷神社で栽培されていたものです。「橘」は、日本で見られる柑橘類の中では唯一の日本固有種なので、ヤマトタチバナ(大和橘)とかニホンタチバナ(日本橘)とも呼ばれます。太平洋岸の暖地に今でもごく僅か自生していますが、レッドデータブック、環境省カテゴリで準絶滅危惧(NT)に指定されています。奈良県下では、この大和橘復活プロジェクト活動が盛んです。
垂仁天皇陵から東に向けて歩きます。近鉄・尼ヶ辻駅を過ぎて、5分ほどのところにある伏見崗(おか)と呼ばれていた所に、阿弥陀堂・地蔵堂が再建され、堂内に祀られている 阿弥陀如来石像 です。この石仏は詳細不明ですが鎌倉時代のものと云われ、伏見の丘に建っていたのですが、三条大路の拡張工事で取り除かれて、新たに建てられた阿弥陀堂内に移されました。ここ伏見崗は東大寺大仏建立にまつわる奈良時代の「伏見翁(ふしみのおきな)」ゆかりの地です。
三条大路(国道308号線)に合流しますと、あとはひたすらJR奈良駅を目指して東へと歩きます。高架の国道24号線と交差する向こうに若草山が見えてきました。14時45分、JR奈良駅に到着、ゴールとしました。本日の歩程 16.4km でした。
郡山八幡神社に立ち寄った後、柳町商店街を散策します。金魚の電話ボックスです。郡山は金魚の町として有名ですが、中でもこの電話ボックスは人気スポットでもあります。
ねこまど。柳町の道路に面した民家の窓。額縁風にして、3匹のネコが日向ぼっこしているのが見られます。
大和郡山城・大手門。豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(大和大納言)が居城とした城で、110余万石を有する大城でした。秀長は温厚、真面目、寛容であり、豊臣秀吉の縁の下の力持ち的存在であり、良きブレーキ役でもありましたが、52歳で没すると、豊臣政権は秀吉の暴走で自滅していくことになります。歴史に”もし”はありませんが、もし秀長が長命を保っていたならば、家康に豊臣家を滅ぼされる事は無かったと言われています。暖かい日差しの中、城内庭園で昼食としました。
昼食後は、大和郡山市の北端・平城京西市跡から 秋篠川 の遊歩道沿いに奈良市西ノ京に向けて歩きます。
秋篠川から見た 薬師寺。左は西塔、右は修理中の東塔(国宝)の覆い屋です(平成32年3月完了予定)。西ノ京に入り、薬師寺を訪ねた後‥
薬師寺北側にある 玄奘(げんじょう)三蔵院伽藍 です。玄奘三蔵は、「西遊記」の三蔵法師として有名な中国唐時代の歴史上の僧侶です。三蔵の分骨を祀っていて、平山郁夫画伯の玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、期間限定(年4回)で見ることが出来ます。
鑑真和尚で有名な 唐招提寺の南大門 を過ぎ‥
第11代・垂仁(すいにん)天皇陵(考古学名は宝来山古墳)に向かいます。古墳時代前期(4世紀後半頃)に築造された前方後円墳で、墳丘長227mは、古墳の大きさでは全国20位です。
垂仁天皇・菅原伏見東陵。写真には写っていませんが、この水壕の中に小さな小島があり‥
その小島は 垂仁天皇の陪塚(ばいづか:主人の墓に伴う従者の墓)=田道間守(たじまもり)の墓 とされています。田道間守は、垂仁天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)=橘(タチバナ)」を求めに常世国に派遣されますが、苦節10年の末、非時香菓を手に入れ、戻ってきた時には既に垂仁天皇は亡くなっておられました。田道間守は、その実を亡き天皇に捧げたのち、あとを追って殉死したと云われています。
非時香菓(ときじくのかくのみ)=タチバナ(橘)です。この写真は午前中に立ち寄った源九郎稲荷神社で栽培されていたものです。「橘」は、日本で見られる柑橘類の中では唯一の日本固有種なので、ヤマトタチバナ(大和橘)とかニホンタチバナ(日本橘)とも呼ばれます。太平洋岸の暖地に今でもごく僅か自生していますが、レッドデータブック、環境省カテゴリで準絶滅危惧(NT)に指定されています。奈良県下では、この大和橘復活プロジェクト活動が盛んです。
垂仁天皇陵から東に向けて歩きます。近鉄・尼ヶ辻駅を過ぎて、5分ほどのところにある伏見崗(おか)と呼ばれていた所に、阿弥陀堂・地蔵堂が再建され、堂内に祀られている 阿弥陀如来石像 です。この石仏は詳細不明ですが鎌倉時代のものと云われ、伏見の丘に建っていたのですが、三条大路の拡張工事で取り除かれて、新たに建てられた阿弥陀堂内に移されました。ここ伏見崗は東大寺大仏建立にまつわる奈良時代の「伏見翁(ふしみのおきな)」ゆかりの地です。
三条大路(国道308号線)に合流しますと、あとはひたすらJR奈良駅を目指して東へと歩きます。高架の国道24号線と交差する向こうに若草山が見えてきました。14時45分、JR奈良駅に到着、ゴールとしました。本日の歩程 16.4km でした。
コメント
コメント一覧 (6)
ものすごい覆い屋ですね。
コメント有難うございます。
7-8月の入院で、年間1500kmの目標は断念したのですが、9-11月にリハビリを兼ねて、ほぼ毎日ないし1日おきに歩いたので、本日現在1260kmとなっていました。1000km位いけば良いかなと思ったいたので、まずまずの数字だったと思います。
そちらは大きなマラソンにも出場されて、充実した1年だったと思います。来年も頑張ってください。
コメント有難うございます。
薬師寺東塔の修復完了が平成32年(2020年)、東大寺の中門・廻廊の修復完了が平成31年(2019年)、法隆寺の中門の修復完了が平成31年(2019年)、興福寺の中金堂の再建落成が平成30年(2018年)等々、奈良の主要寺院の修復工事が相次いでいます。2020年は東京オリンピックの年ですので、観光客誘致のためにも、それまでに直したいと云うことでしょうか。
コメント有難うございます。
この電話ボックス水槽は、大和郡山市が水都大阪フェス2011に展示出品したアート作品で、中の電話機などは模造品です。京都造形芸術大学の学生が作り、各地の展示会を転々としたあと、ここに常設されました。ここはカフェ店の前でカフェ店の人たちがお世話されています。勿論、電話ボックスの金魚は本物で生きています。