★シルバー健康ウォーク1月例会 「平安神宮から出町柳へ」 1/6
シルバー健康ウォークの定例会、
2017年の最初の歩きは京都へ行きました。
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JRから京都地下鉄へ乗り換えて、地下鉄・東山駅で下車。出席点呼の後、神宮通りを北上しますと、平安神宮・大鳥居 が真っ正面に見えます。本日の参加者は21名。風もなく天候も良くて、絶好のウォーク日和です。
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大鳥居を過ぎますと岡崎公園です。右手(東側)は京都市美術館、左手(西側)はロームシアター京都です。その一角に置かれたのが 旧・京都市電・1860号 です。京都市電廃止後、長い間、大宮交通公園で保存されていましたが、2015年11月に岡崎公園に移管され、岡崎の総合案内・情報発信基地として、コンシェルジュの役割を担ってオープンしました。子供の頃から社会人となった頃まで、通学や通勤、行楽など、随分と市電のお世話になりました。懐かしいです。市電廃止後、15両の1800型車両が広島電鉄に引き取られ、今でも広島市内を現役で走行していることは、広島に行かれた方なら、よくご存知のことと思います。
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平安神宮・応天門を過ぎますと、広い境内の 正面中央に外拝殿(大極殿)、左に白虎楼、右に蒼龍楼。平安京大内裏の正庁・朝堂院を模して造られました。朱塗りの建築に緑色の屋根が映えて仲々美しいです。ここで初詣タイムをとったあと‥
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聖護院(しょうごいん) に立ち寄りました。寺の詳細は存知ませんが、「聖護院」と云う名前は子供の頃からそれとなく親しんでいました。京野菜の一つ、聖護院ダイコン(大根)も、かつてはこの辺りで栽培されていたとか‥
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寺のすぐ近くには、
京都土産として知られている 聖護院八ツ橋の総本店 もあります。
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リーダーさんが「次の光明寺はどうしようかな?」とつぶやかれたような気がして、カットされると困る私は、すかさず「会津藩や新撰組ファンの一人としては、金戒(こんかい)光明寺 にはぜひ行きたい」と催促、立ち寄ることになりました。
入口の 高麗門(城門) です。幕末の不穏な京都の治安を守るために、徳川幕府は「京都守護職」という新たな役職を設け、会津藩主・松平容保(かたもり)を任命します。火中の栗を拾うに等しい役目に、家老の西郷頼母以下、家臣たちが藩主に守護職の辞退を懇願しますが、律義な容保は、誰もが嫌(いや)がったこの大役を引き受けて、会津藩士を連れて京都にやってきます。そして会津藩の本陣としたのが、この黒谷にある金戒光明寺でした。徳川家康は江戸時代初期に、直轄地である京都に二条城を再建し、何かある時には軍隊も配置できるようにと、知恩院と金戒光明寺の2寺を城郭構造に改めさせていたのです。金戒光明寺は、千名以上の会津藩士が駐屯出来たほどの堅牢・広大な寺でした。
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金戒光明寺・正門 です。石垣に囲まれた長くて急な石段の上に建つ壮大な山門に圧倒されます。どうしても行きたい所が幾つかあって、境内散策時間はどれくらいあるのかと、リーダーに確認しますと、20分後に北門に集合してください、とのことです。20分、これは急がねばなりません。
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左写真:戦国武将・浅井長政と妻・お市の方(織田信長の妹)の間に生まれた三姉妹の三女・江(ごう)の供養塔です。平成23年のNHK大河ドラマ「江(ごう)~姫たちの戦国」で有名になりました。江役の上野樹里ちゃんが良かったですね。江の姉(長女)が、昨年(平成26年)のNHK大河ドラマ「真田丸」の秀吉の側室・淀君(茶々)でした。茶々役の竹内結子ちゃんも良かったです。お市の方も茶々も戦国と云う非情な世界に翻弄されて亡くなっていきますが、江は徳川2代将軍・秀忠の正室となり二男五女を儲け、浅井の血を引き継ぎます。しかし、
長男・家光を次期将軍に推す家光の乳母・春日局(かすがのつぼね)と、二男・忠長を溺愛するお江との熾烈な跡継ぎ争いは、結局、春日局に軍配が上がり、忠長は25歳で自害、お江も失意の内に死にます。江は長男・家光によって江戸・増上寺に埋葬されますが、春日局は金戒光明寺宝篋印塔を建て江の供養塔としました。これには春日局のお江への追善の気持ちがあったわけで、隣には忠長の供養塔も立てられています。
右写真:
金戒光明寺・三重塔の手前に建つ 会津墓地参道 の石標。
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ここが本日、私が一番立ち寄りたかった 会津藩殉難者墓地 です。境内の山の上、東北方面の最奥地にあります。ここには、会津藩関係者352名~
文久2年から慶応3年までの5年間に亡くなった237霊と、鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊~が祀られています。鳥羽伏見の戦いに勝った官軍は、幕府側の戦死者を野ざらしのままにしておくよう、埋葬することを禁じました。この非情な仕打ちに京都の侠客・会津小鉄(あいづのこてつ)が、夜な夜な官軍の目を盗んでは、遺体や遺品を拾い上げては金戒光明寺にまで運んで、荼毘に付し埋葬し、遺品は会津の家族のもとに届けてやったのです。容保をはじめとする会津藩士たちの孝明天皇と幕府に対する一途な忠誠心を、賊軍として人間扱いしなかった岩倉具視と薩長軍。とても許せるものではありません。「勝てば官軍」とは、まさにこういう卑劣な奴らを指す言葉なのでしょう。しばし、会津の英霊たちに思いを寄せていると、突然携帯電話が鳴り、「もう出発するから早く戻ってこい」との催促連絡が入りました。これだから団体行動は好きではないのですが仕方ありません。この墓地の隣にある西雲院には、会津小鉄の墓があって、そこにも立ち寄りたかったのですが、時間が許さず、金戒光明寺を後にしました。 <続く>