参加したいイベント・ウォークの日程が飛び飛びで、次の予定まで、かなり間が空いてしまいましたので、天気の良い日を見計らって、飛鳥へ歩きに行くことにしました。
★個人ウォーク 「飛鳥を歩く」 1/17
10時30分に家を出て丁度1時間、11時30分に 奈良県立万葉文化館 に到着です。セント君も万葉衣装で出迎えてくれました。ここからウォーク・スタートして、本日は飛鳥の東部地区を散策する予定です。その前に万葉文化館で何か目新しい展示物がないか中へ入ってみました。
万葉劇場では12時から、私の大好きな 額田王(ぬかたのおおきみ) の人形と映像による「万葉のヒロイン・額田王(上演時間14分)」が始まるとのことで見に行きました。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)と大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)との兄弟に愛され、天智天皇亡きあとは肉親同士の皇位争いとなる壬申(じんしん)の乱に心を痛め、寂しく晩年を過ごした‥額田王の美しくも悲しい生涯をしばし見せてもらいました。
万葉文化館を出て 飛鳥寺 を訪れました。推古天皇4年(596)蘇我馬子によって建てられた日本最初の寺です。本尊は 釈迦如来像(飛鳥大仏)で、推古天皇13年(605)に渡来人の仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた、これも日本最古の仏像です。しかし、平安期・鎌倉期の二度に渡る火災で全身罹災し後補を受けているため、国宝には指定されず重文に甘んじていますが、飛鳥の様式は十分伝わってきます。
飛鳥寺の西手にある 蘇我入鹿(いるか)の首塚。蘇我入鹿は、祖父・蘇我馬子(うまこ)、父・蘇我蝦夷(えみし)の血を受け継ぐ飛鳥時代の大豪族・蘇我氏の宗家で、朝廷を牛耳るほどの有力者でしたが、これを快く思わなかった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって殺害されます。いわゆる 乙巳(いっし)の変 です。これを機に蘇我氏は凋落、翌年には大化の改新となり、世の中は大きく変わっていきます。後方の丘が甘樫丘(あまかしのおか)で、この山麓一帯が蘇我氏の邸宅でした。
北東へと足を進め、飛鳥坐(あすかにいます)神社 を訪れました。境内のあちこちに陰陽石が祀られています。この神社で毎年2月第1日曜日に行われる御田植祭(おんだ祭)は日本でも有数の奇祭で、必見の価値ありですが、大混雑は覚悟してください。この神社下にある休憩所(東屋)で遅い昼食としました。
"大原の里" を歩きます。(左上)大原神社前に建つ、大原の里の説明板と、「大織冠(藤原鎌足のこと)誕生旧跡」の石碑。(右上)藤原鎌足公御母 大伴夫人(おおともぶにん)之墓。藤原鎌足のお母さんの墓地を示す石碑です。大伴夫人は、大伴咋(くい)の娘・智娘仙(ちせんのいらつめ)のことで、中臣御食子(なかとみのみけこ)の妻となって鎌足を生みました。後方の山が大伴夫人の古墳で、東西11m、南北12m、高さ2.4mの円墳です。(左下)大原神社本殿。本殿は古い茅葺ですが傷みが激しく覆殿に囲われています。(右下)大原神社後方の竹田川のほとりにある、藤原鎌足の産湯の井戸。飛鳥でも訪れる人の少ない”大原の里”ですが、蘇我氏に代わって天皇家の重臣となった藤原氏発祥の地として静かに今に至っています。
山腹の 岡寺 まで行きましたが、境内には入らず仁王門の前でUターンし、下山しました。
岡寺からの下山途中にある 岡本寺。飛鳥時代の舒明(じょめい)天皇および斉明天皇の岡本宮の跡と云われていますが、看板には何故か天智天皇?・岡本宮・御遺跡 と記されていました。
犬養万葉記念館 に入館します。飛鳥と云えば万葉集、万葉集と云えば犬養さんでしょう。万葉集の研究に一生を捧げられた故・犬養孝先生(大阪大学名誉教授、明日香村名誉村民)。1950年に大阪大学教養部助教授となった犬養さんは、翌1951年から学生たちを連れて万葉の各地を訪ねる「大阪大学万葉旅行之会」をスタートさせます。1986年10月19日に行われた第201回目の万葉旅行は、近鉄電車を借り切っての飛鳥(檜隈・明日香川)旅行でした。その時の記念列車には200回達成記念のヘッド・マークが掲げられました。
東部地区を南下し、久しぶりに 石舞台古墳 に入場し見学しました。改めて説明するまでもないのですが、蘇我馬子の墓 だと云われています。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な古墳の天井部分の石組みが露出しています。写真は石舞台古墳の西面です。こちらは石舞台の東面。30数個の岩の総重量は約2300トン。特に天井石は、右側(北側)の石が66トン、左側(南側)の石が77トンと推定され、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがれます。石舞台古墳は横穴式石室で 二段積みの方墳 であった可能性が高いです。(左)古墳石室に入っていく羨道。(中央)古墳石室の内部。(右)この石室内に置かれていたであろう復元された石棺。
石舞台古墳復元図 です。明日香村のホームページ(石舞台古墳・解説書)から借用させていただきました。
時間も15時を過ぎましたので、進路を北にとり、万葉文化館へと戻ります。途中、回り道をして、酒船石(さかふねいし) に立ち寄ってみました。飛鳥は石造物の宝庫と云われていますが、いつ・誰が・何の目的で造ったのかは定かでないものが多く、この酒船石も、酒を造る道具とか、薬を造る道具だとか諸説ありますがはっきりしていません。15時30分、万葉文化館・駐車場に戻ってきてゴールとしました。本日は入場や見学が多くて、歩程は 6.8km でした。
★個人ウォーク 「飛鳥を歩く」 1/17
10時30分に家を出て丁度1時間、11時30分に 奈良県立万葉文化館 に到着です。セント君も万葉衣装で出迎えてくれました。ここからウォーク・スタートして、本日は飛鳥の東部地区を散策する予定です。その前に万葉文化館で何か目新しい展示物がないか中へ入ってみました。
展示室では万葉の時代~飛鳥京、藤原京、平城京~の歴史や生活を学べます。何度も見たものが多いのですが、その中から平城京での「大仏鋳造の様子」の模型です。
万葉劇場では12時から、私の大好きな 額田王(ぬかたのおおきみ) の人形と映像による「万葉のヒロイン・額田王(上演時間14分)」が始まるとのことで見に行きました。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)と大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)との兄弟に愛され、天智天皇亡きあとは肉親同士の皇位争いとなる壬申(じんしん)の乱に心を痛め、寂しく晩年を過ごした‥額田王の美しくも悲しい生涯をしばし見せてもらいました。
万葉文化館を出て 飛鳥寺 を訪れました。推古天皇4年(596)蘇我馬子によって建てられた日本最初の寺です。本尊は 釈迦如来像(飛鳥大仏)で、推古天皇13年(605)に渡来人の仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた、これも日本最古の仏像です。しかし、平安期・鎌倉期の二度に渡る火災で全身罹災し後補を受けているため、国宝には指定されず重文に甘んじていますが、飛鳥の様式は十分伝わってきます。
飛鳥寺の西手にある 蘇我入鹿(いるか)の首塚。蘇我入鹿は、祖父・蘇我馬子(うまこ)、父・蘇我蝦夷(えみし)の血を受け継ぐ飛鳥時代の大豪族・蘇我氏の宗家で、朝廷を牛耳るほどの有力者でしたが、これを快く思わなかった中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって殺害されます。いわゆる 乙巳(いっし)の変 です。これを機に蘇我氏は凋落、翌年には大化の改新となり、世の中は大きく変わっていきます。後方の丘が甘樫丘(あまかしのおか)で、この山麓一帯が蘇我氏の邸宅でした。
北東へと足を進め、飛鳥坐(あすかにいます)神社 を訪れました。境内のあちこちに陰陽石が祀られています。この神社で毎年2月第1日曜日に行われる御田植祭(おんだ祭)は日本でも有数の奇祭で、必見の価値ありですが、大混雑は覚悟してください。この神社下にある休憩所(東屋)で遅い昼食としました。
"大原の里" を歩きます。(左上)大原神社前に建つ、大原の里の説明板と、「大織冠(藤原鎌足のこと)誕生旧跡」の石碑。(右上)藤原鎌足公御母 大伴夫人(おおともぶにん)之墓。藤原鎌足のお母さんの墓地を示す石碑です。大伴夫人は、大伴咋(くい)の娘・智娘仙(ちせんのいらつめ)のことで、中臣御食子(なかとみのみけこ)の妻となって鎌足を生みました。後方の山が大伴夫人の古墳で、東西11m、南北12m、高さ2.4mの円墳です。(左下)大原神社本殿。本殿は古い茅葺ですが傷みが激しく覆殿に囲われています。(右下)大原神社後方の竹田川のほとりにある、藤原鎌足の産湯の井戸。飛鳥でも訪れる人の少ない”大原の里”ですが、蘇我氏に代わって天皇家の重臣となった藤原氏発祥の地として静かに今に至っています。
山腹の 岡寺 まで行きましたが、境内には入らず仁王門の前でUターンし、下山しました。
岡寺からの下山途中にある 岡本寺。飛鳥時代の舒明(じょめい)天皇および斉明天皇の岡本宮の跡と云われていますが、看板には何故か天智天皇?・岡本宮・御遺跡 と記されていました。
犬養万葉記念館 に入館します。飛鳥と云えば万葉集、万葉集と云えば犬養さんでしょう。万葉集の研究に一生を捧げられた故・犬養孝先生(大阪大学名誉教授、明日香村名誉村民)。1950年に大阪大学教養部助教授となった犬養さんは、翌1951年から学生たちを連れて万葉の各地を訪ねる「大阪大学万葉旅行之会」をスタートさせます。1986年10月19日に行われた第201回目の万葉旅行は、近鉄電車を借り切っての飛鳥(檜隈・明日香川)旅行でした。その時の記念列車には200回達成記念のヘッド・マークが掲げられました。
東部地区を南下し、久しぶりに 石舞台古墳 に入場し見学しました。改めて説明するまでもないのですが、蘇我馬子の墓 だと云われています。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な古墳の天井部分の石組みが露出しています。写真は石舞台古墳の西面です。こちらは石舞台の東面。30数個の岩の総重量は約2300トン。特に天井石は、右側(北側)の石が66トン、左側(南側)の石が77トンと推定され、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがれます。石舞台古墳は横穴式石室で 二段積みの方墳 であった可能性が高いです。(左)古墳石室に入っていく羨道。(中央)古墳石室の内部。(右)この石室内に置かれていたであろう復元された石棺。
石舞台古墳復元図 です。明日香村のホームページ(石舞台古墳・解説書)から借用させていただきました。
時間も15時を過ぎましたので、進路を北にとり、万葉文化館へと戻ります。途中、回り道をして、酒船石(さかふねいし) に立ち寄ってみました。飛鳥は石造物の宝庫と云われていますが、いつ・誰が・何の目的で造ったのかは定かでないものが多く、この酒船石も、酒を造る道具とか、薬を造る道具だとか諸説ありますがはっきりしていません。15時30分、万葉文化館・駐車場に戻ってきてゴールとしました。本日は入場や見学が多くて、歩程は 6.8km でした。
コメント
コメント一覧 (10)
歴史素人には酒船石は時計に見えます。
飛鳥大仏をこの目で見たいものです。独特の雰囲気を持ってますね。
ところでブログの引っ越しですが、ライブドアに再挑戦した結果、見事に画像も含めて引っ越しできました。早速ブログをアップしたのですが、写真をクリックして別画面で表示できるようにする方法が分かりません。もしご存知でしたらお教えください。
引っ越し先です・・http://coo73chan.blog.jp/
コメント有難うございます。
この時期は花も少ないので、ウォーキングも歴史遺跡や酒蔵巡りがメインとなってしまいます。ウォーキング協会主催のウォークなどでは、参加回数のポイント稼ぎが目的で、史跡や鳥や花などには目もくれない、歩くだけの人が余りにも多いです。折角の歩きですから、関心のあるジャンルをもって楽しみたいですね。
コメント有難うございます。
セント君については、仰るとおりです。初めて登場した時には賛否両論があって、私も変なキャラクターだなぁと思ったのですが、見慣れてきたからか、もう違和感はなくなりました。新しく引っ越しされたライブドアのブログ見せてもらいました。
投稿設定で画像最適化設定の際でのサイズ調節を「使用しない」にして私も一度テストしてみましたが、当該画像の上では、マウスはクリックマークに変わるのですが、クリックしても画像の大きさは変わりませんでした。申し訳ありませんが、私もいまだに分かりません。
コメント有難うございます。
もう私などは忘れていくスピードの方が早いので、ウォークでいろいろ巡ることで、改めて調べて再認識している次第です。ほうっておくと、ますます頭が退化していきます。浅く広く色々のジャンルに興味を持っていると、ウォーキングも楽しく過ごせますね。
仰せの方法でやってみたところ、画像上にカーソルを載せると指マークに変わり、クリックすると元画像が表示されました。ありがとうございました。これで本ブログを引っ越し先にする可能性は非常に高くなりました。今後ともよろしくお願いします。
ご連絡有難うございました。
私もこの方法ではないかと一度試してみたのですが、指マークに変わり画像も別画面にはなったのですが、元の大きなサイズにならなかったので諦めました。そちらでは上手く行ったとのことで、当方のどこかが悪かったのでしょうね。
コメント有難うございます。
額田王は魅力的な女性だったことは間違いないでしょうね。「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き‥」の和歌が有名ですね。ムラサキグサ(薬草)を摘んだ野原は、滋賀県の蒲生野(雪野山の麓)ですが、私の母校が、京都市立紫野(むらさきの)高等学校で、校歌の歌い出しも「あかねさす紫野の丘べ‥」だったものですから、場所は違えど、高校時代から額田王には親しみがあって大好きでした。蘇我氏は天皇をも凌ぐ権力者だったことが古墳からも分かりますね。先年発見された「小山田遺跡」は石舞台古墳よりも規模が大きくて、舒明天皇陵ではないかと云われていますが、個人的には入鹿と同時期に死んだ蘇我蝦夷が自分のために作りかけていた墓ではないかと思っています。→ http://bell3.blog.jp/archives/8781652.html