阪急ハイキングの「大文字山登山」が行われましたので、昨日に引き続き、朝から京都に行きました。本日の受付場所は、祇園・八坂神社の絵馬堂前です(後刻の報告では総勢1308名が集まったとのことでした)。ところが、スッタッフから「一昨日(1/19)に下見で大文字山に行ったところ、頂上付近は雪が残っていて、一部アイスバーン状態もあって、大勢のハイカーが歩行するのは無理と判断し、大文字山登山は中止します。代わって下山後の帰路となっていた”哲学の道”あたりを2時間ほど歩く予定に変更しましたので、ご了承ください」とのアナウンスがありました。後ろに居た男性からは「ご了承出来ません」との声や、前に居た男性からは「前回(一昨年)の大文字山登山も雨で中止になった。これでは来月の愛宕山登山もアテにならんなぁ」と不満の声が聞こえました。私も大文字山に登りに来た口でしたが、何よりも安全第一の身です。でも、このまま変更ウォークに参加するか迷っていたら、9時50分、行列の先頭から歩き始め、つられて一緒に歩きだしたのですが、不本意なウォークなら、自分の好きな所を散策した方が楽しいと考え直し、青蓮院を過ぎた所でドロップアウトしました。
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★個人ウォーク 「心残りの地を訪ね歩く」 1/22
急遽、予定が変更になりましたので「大文字登山」のタイトルも変えざるを得ません。今月初めのシルバー健康ウォークで「金戒(こんかい)光明寺」に立ち寄ったのですが、短い自由時間だったため、十分に見られず「心残り」になっていたので、この機会にもう一度訪ねてみることにしました。
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金戒光明寺・高麗門。右手に寺名が、左手に奥羽会津藩松平肥後守様・京都守護職本陣の看板が掲げられています。
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高麗門の細部。鏡柱は鉄板補強された筋金門様式、門扉にはびっしりと鉄鋲が打ち込まれている堅牢な城門仕立てです。
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金戒光明寺・御影堂。法然75歳の時の坐像が安置されています。承安5年(1175)に、法然は比叡山を下り、黒谷のこの地に草庵を構えたのが、この寺の始まりと云われています。
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境内の蓮池に架かる極楽橋のたもと、右手に「江(ごう) 供養塔」、左手に「会津墓地参道」、の道案内が立っています。
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春日局(かすがのつぼね)によって建てられた「徳川2代将軍・秀忠の正室・江の供養塔(左)」と、「秀忠と江との間に出来た三男・徳川(松平)忠長の供養塔(右)」です。二男の家光は春日局を乳母として育てられましたが、三男の忠長は江が自らの手で育てました。秀忠も江も、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも、容姿端麗・才気煥発な国千代(国松とも云う、忠長)を寵愛し後継ぎにと願っていたのですが、春日局が推す家光と熾烈な家督争いへと発展していきます。春日局は駿府に居た大御所・家康を訪ねて直訴し、家光を後継ぎにすることに成功し、江の望みは打ち破られてしまいます。その後、秀忠と江との娘・和子は、第108代・御水尾天皇へ嫁ぐことになり、秀忠も家光も忠長も揃って京都に参上しますが、その僅かな間に、江は江戸城で急死します。娘・和子を京都に送り出すまで元気だった江が、夫も息子たちもいない間に急死するとは‥。織田信長の妹で絶世の美女・お市の方を母に持ち、2代将軍・秀忠の正室となり、3代将軍・家光の母となり、第109代・明正天皇の祖母ともなった、栄華を極めたお江(ごう)さんの余りにも謎多き最後でした。春日局が毒殺したとの噂もあり‥真実は闇の中ですが、春日局が、ここに江と忠長の供養塔を建てたのは、心のどこかに負い目があったのでしょう。ちなみに春日局の供養塔(墓)もこの金戒光明寺にあります。
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境内の最奥にある 会津藩墓地 の一角です。
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会津藩墓地の中にある、「伏見淀鳥羽・戦死者道志るべ」の石碑(左)と、「会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑」(右)です。今も会津の人達が墓参に来られ、ふるさとの会津鶴ヶ城や白虎隊の写真などが置かれていることがあります。
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金戒光明寺の塔頭、西雲院 です。法然が比叡山から下りてきたあと、ここにある石に腰かけて念仏を唱えたところ、たちまち紫色の雲がたなびき、光が四方に満ちたと云われていて、金戒光明寺の創基となりました。この石は「紫雲石」として西雲院のお堂の中に祀られています。また、会津藩墓地の隣にある西雲院は、会津藩墓地を預かる菩提寺でもあり、毎年6月に会津松平家の当主を招き、法要が行われています。
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西雲院境内にある 侠客・会津小鉄(あいづのこてつ)の墓所。右が会津小鉄の墓、左は実子の二代目・会津小鉄の墓。
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会津小鉄の墓。法名の左下に、侠客会津小鉄事・上坂仙吉と小さく刻銘されています。会津小鉄の本名は上坂仙吉といい、幕末から明治に活躍した侠客です。文久2年(1862)小鉄は、京都守護職となった会津藩主・松平容保の知遇を得て、若くして元締めとなり、会津藩の影の協力者として活躍したことから、「会津小鉄」と呼ばれるようになりました。禁門の変(蛤御門の変)の後には、松平容保から感謝状を授かっています。鳥羽伏見の戦いでは、官軍の目を盗んでは会津藩の戦死者を収容し、金戒光明寺に運んで荼毘に付し埋葬に尽力しました。そののち、戦死者の遺品を携え、官軍のいる会津若松に潜入して家族のもとに遺品を届けています。
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金戒光明寺の境内全図。会津墓地・西雲院は右端・三重塔の左上あたりです
(クリックすると拡大図になります)
金戒光明寺を散策した後、伊藤若冲の関連地などを巡り歩きましたが、今回は長くなりましたので次回に。