金戒光明寺を出た後は、市中見廻りに、もとい、会津藩でも新選組でもあるまいし、市中散策に‥伊藤若冲(じゃくちゅう)の面影を訪ねに行きました。昨年は若冲生誕300年でしたので、日本中が若冲と云う特異な画家について認識を新たにし、大ブームが起こったのは記憶に新しいです。
kyoto61
伊藤若冲筆・髑髏図(宝蔵寺所蔵)。若冲はこんな絵も描いています。この写真は宝蔵寺の「伊藤若冲の家族墓」の石碑に印刷されているものです(後述)。江戸時代中期の画家・伊藤若冲は、正徳6年(1716)2月8日に、京都・錦小路の青物問屋・桝屋(ますや、通称は桝源)の長男として生まれました。23歳の時に父親が死去し、家業を継ぎますが、30歳の頃から家業の傍ら、絵を本格的に学びはじめます。当初は狩野派の門を叩きましたが自分の画法が描けないと、独学で腕を磨いていきます。その若冲の才能を発見し支援したのが、相国寺の大典(だいてん)顕常和尚です。後に相国寺第113世管長となった梅荘顕常(ばいそうけんじょう)でした。
kyoto62
市内の繁華街で昼食を済ませ、裏寺町通りの 宝蔵寺 を訪ねました。宝蔵寺は、若冲の生家のあった錦市場に近く、伊藤家の菩提寺です。若冲の生涯で大きな関わりをもった3つの寺~幼少時からの宝蔵寺、壮年時の相国寺、そして晩年の石峰寺~の中の一つです。
kyoto64
境内にある 伊藤若冲親族の御墓。宝蔵寺では若冲生誕300年(平成28年)が近づいてきた2年前の平成26年に
「若冲親族のお墓」保存修理事業を展開し、平成28年2月7日に完成しました。この黒い石碑の下方に宝蔵寺が所蔵する若冲筆・髑髏図の一部が描かれてます(冒頭の写真はコレ)。右の墓石の側面には「伊藤若冲建」と刻銘されているのが読めます。
kyoto65
現在、本堂は拝観できませんが、髑髏図原画は掛軸風の細長い拓版画で、髑髏図の上方には、「一霊皮袋 皮袋一霊 古人之語 八十六翁 高遊外」と記されており、86歳の時に高遊外(売茶翁=ばいさおう)が画賛したもので、「
一霊皮袋 皮袋一霊」とは、要するに肉体と魂は一体のもので、亡骸(髑髏)になっても魂が何処かに行くのではなく肉体(髑髏)と共にあり、この人そのものである、と云うことだそうです。若冲は禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)との関わりが強く、相国寺で大典和尚や売茶翁と出会い、生涯の師としました。特に売茶翁の生き方には憧れをもっていて、若冲も晩年にはそれを見習って、自分のことを斗米庵(とべいあん)と称しました。また、売茶翁は黄檗宗の出だったので、若冲も晩年には黄檗宗の石峰寺に身を寄せました。寛政12年(1800)85歳で若冲が亡くなると、石峰寺で土葬され、相国寺で法要が行われました。
<注> 売茶翁‥文字通り、茶を売る老人の意味。高遊外は57歳の頃に、禅道と茶道の形式化や堕落を鋭く批判し、鴨川のほとりで茶を売り、僅かな入り銭で生計をたてていました。「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい。ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず(訳:お茶の代金は小判二千両から半文まで幾らでも結構。ただで飲んでも結構。ただより安くは出来ません)」と、身分を問わず、茶代を払おうと払うまいと全く気にかけず、形式化した抹茶中心の茶道を批判し、煎茶の普及に努めましたので、
「煎茶の中興の祖」とも云われています。
kyoto66
若冲の墓は、
相国寺に建てた生前墓と、死後埋葬された石峰寺の墓の、2つがあります。ちなみに、こちらは 石峰寺にある若冲の墓 です(5年前の2012年2月に撮った写真です)。墓石には斗米庵若冲居士墓と記されています。若冲は芸事にも酒にも女性にも興味がなく、従って結婚もせず、恐らく家業にも余り熱心では無かったようで、40歳で家業を弟に譲っています。相国寺の僧は「若冲は人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評しており、絵を描くことが唯一の楽しみであったようです。高名とか栄華とかには見向きもせず、斗米庵とは「絵1枚を米1斗と交換して」生活している隠居人と云う意味です。
kyoto63
宝蔵寺内にある家族の墓の正面像。若冲が35歳の時(寛延4年・1751)に建立した父母の墓は右側の2つです。左端の末弟の宗寂の墓石には伊藤若冲建の銘がありましたが、「若冲」と云う
名前(居士号)は、宝暦2年(1752)頃に相国寺の大典和尚より与えられたものです。ここには次弟・白歳の墓(左から2番目)も建てられていますが、伊藤家は幕末で家系が途絶えています。
kyoto67
寺町通りに面する錦小路・東端から、錦市場内を歩きます。
kyoto68
狭い通路の天井には、若冲生誕300年を記念した若冲の絵が色々と吊り下げられています。
kyoto69
一軒だけ閉店していた店のシャッターには若冲の「菜蟲譜」の絵が描かれていました。このように錦市場の各店のシャッターには若冲の絵が50数点描かれているのです。昼間は目にすることが出来ないのですが、夜、市場が閉店し店のシャッターが降りると、錦市場はライトアップされ、若冲のプロムナード・ギャラリーに変身、京都の隠れた名所となっています。
kyoto70
高倉通りに面した錦市場の西側入口です。正面上部に若冲の大きな絵が、左右に若冲の絵行燈が立っています。
kyoto71
絵行燈のアップ。高倉通りから錦市場への入口の右端あたりが、若冲の生家「
」のあったところです。若冲の絵に鶏や魚や野菜が多く見られるのは、錦市場の青物問屋で生まれ、小さな頃から詳細に動植物の観察を積んでいたからでしょうか。ところで、明和8年(1771)から安永3年(1774)頃に、錦市場は奉行所から営業差し止めとなる事件が起こります。この時に立ちあがったのが若冲でした。家業を弟に譲り、絵に没頭していた若冲でしたが、流石に生地の危機は見過ごすことが出来なかったのでしょう。奉行所への直訴は一つ間違えれば打ち首ともなるなかで、若冲は東奔西走し奉行所ともかけあい、錦市場復興のために全力を傾注したのです。当然、若冲は絵どころではなかったので、この時期に描いた絵はありません。この事件については今迄知られていなかったのですが、近年発見された資料で確認されました。錦市場にとっては若冲は復興の恩人であり、若冲も錦市場と共に生きていたのでした。
天明8年(1788)、京都で史上最大の大火災が発生し(天明の大火)、市街の大半が焼けてしまいます。このため、若冲は一時、
大阪・西福寺に身を寄せますが、この時に「私の絵が評価されるのは200年後であろう」と語ったことが記録されています。今まさに、若冲没後216年。彼の絵画が大きくクローズアップされる時代となりました。