当地(木津川市)は奈良市と隣接しています。府県境となっているのは東西に延びる平城山(ならやま、奈良山)丘陵で、東方部分は佐保丘陵、西方部分は佐紀丘陵と分けて呼ばれることもあります。大和と京都をつなぐ要所で、奈良時代は西の「歌姫越え」の、平安時代以降は東の「般若寺越え」の街道が使われ、ともに奈良坂と呼ばれていました。丘陵内には古墳時代後期の古墳群や奈良時代の瓦窯(がよう)跡が沢山残されています。
★ふるさと案内かも2月例会 「西木津の古代遺跡を巡る」 2/11

ふるさと散歩の今月は、当地の旧・木津町内を歩きます。幾度となく歩きまわっているところですが、今回は歌姫街道の一部を歩きますので、再勉強を兼ねて、親友と一緒に参加しました。
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JR学研都市線・西木津駅で下車。相楽(さがなか)神社 で受付です。今日の参加者は30名ほどでした。相楽神社の創立は定かではありませんが、平安時代の「延喜式」神名帳に名前が見られることから、それ以前からの神社であったようです。古くは八幡宮と呼ばれていたように、祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の親子三神です。
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親友が教えてくれた相楽神社の東隣にある相楽小学校の渡り廊下。よ~く見ますと、神社の鳥居の形になっています。意図して作られたのか偶然の産物なのか分かりません。
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大里地区内を歩き、安楽寺を経て、西宮神社を訪ね‥
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法泉寺。小高い丘にあり奈良の若草山から和束・鷲峰山(じゅうぶせん)、晴れた日には京都・比叡山まで見えるそうです。
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瓦製社殿(がせいしゃでん)。室町時代(1446年)作。社殿本体と屋根部分を分割して粘土で成型、焼き上げた小型の神社建物です。屋根部分が檜皮葺きを模した写実的表現となっていて、類例の少ない文化財となっています。昭和27年から京都国立博物館に寄託されていましたが、平成27年に法泉寺に戻ってきました。
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古代からの道、歌姫(うたひめ)街道の一里塚に向かいます。若草山にうっすらと雪が積もっていました。
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舗装された 歌姫街道の脇にある一里塚(一本松) です。本日、私が再確認したい一番のポイントでした。
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一里塚には大きな松の木と、その下にお地蔵様を祀る小さな祠(ほこら)があります。この松と地蔵の由来については、以前読んだことのある 郷土愛好家・白井繁夫氏の文献(下津道周辺の散策)から引用 させていただきます。
「この塚のお地蔵さんに手を合わす古老の話を聞き(中略)、ここの塚には昭和43年頃まで樹齢400-500年位の”巨大な松”があり、その木の松葉は一般の二葉の松葉でなくて、一葉であり、夜泣きする幼児にこの松葉を煎じて飲ませば、夜泣きに効くと云われ、夜泣留(よなきどめ)地蔵さんとして信仰されてきた、とのことでした。(中略)木津には、かって”一里塚”が三つありました。①伊勢.伊賀街道の『梅谷』、②奈良街道の『市坂』、③歌姫街道の『相楽』(現在残っているのは③の相楽の一本松の塚だけです)。江戸時代前期の貝原益軒の紀行文『和州巡覧記』元禄5年:1692年の偏「山城、大和の境に大きな松の木がある所、南に溝があり、そこが境界として古来より記されているが、筆者(益軒)はこれを一里塚ではないかと思う、とあり、前述の一葉の松が、この時すでに巨木であったことを意味しています」。
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石井氏が当時地元の古老から聞かれたと云う、”一葉松と地蔵の話”が、この祠の中にある地蔵の上に筆書きで記されているのを初めて確認しました。ただ、一部文字が消えそうな箇所もあり、完読はできませんでした。また現在の松は何代目か不明ですが、一葉松は枯れ、今は三葉松=
三鈷(さんこ)の松 となっているところも面白いことです。一里塚を示す重要な松なので、普通の松(二葉松)にしなかったのではないかと私は思っています。
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歌姫街道の一里塚が何処を起点としていた道標だったのでしょう。その起点となっているのが 奈良・東大寺にある「一里塚」の石標(2013年6月撮影)だそうです。先述の
白井繁夫氏の文献から更に引用させていただきます。
「”歌姫街道”から古都奈良の道路原標を訪ねた時に、”木津の一里塚”の話題がでました。この奈良の道路原標は、八世紀の東西に走る佐保路(木津からの奈良街道筋)、東大寺の西側、国宝の転害門(てがいもん)より南の西大門路のところに、一里塚と書いた自然石が巨大な榎の傍らにあります。江戸時代の古書『奈良坊目拙解:享保20(1735)年』より、”南京より諸道にいたるこの塚をもって定式とする。今に絶えることなし”とありました。しかし、そこに偶々(たまたま)いた古都奈良の歴史検定目指して勉強している人が、”
江戸時代以前より、この塚が諸国へ通じる古道の起点で、木津には『最初の一里塚』がある”と聞き、私もつい嬉しくなって、話が弾みました」、と記されています。
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平城山丘陵の支陵である相楽(さがら)山を、ニュータウンに改造する工事中の昭和57年(1981)6月11日に、この地から銅鐸が出土しました。写真は住宅地の道路に埋め込まれた 相楽山銅鐸出土地 のプレートです。更に、
銅鐸発見場所から東方約200mの場所で、同時代の集落や墓(方形周溝墓:まわりを方形の溝で囲んだ墓)の遺跡=大畠遺跡も発見されたのです。当時の銅鐸は、祭祀に使用し複数の集落を束ねる母体の集落が管理していました。近畿地区の山城、大和、河内では各郡に銅鐸1個の割合だったそうです。
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音如ヶ谷(おんじょがたに)瓦窯跡。和銅元年(708)平城遷都が決定したあと、宮殿や役所の建設に葺かれた瓦は数百万枚と云われています。平城山丘陵は、都に近く、瓦の材料となる粘土や燃料となる材木に恵まれていて、丘陵のあちこちに、瓦を焼く窯(かま)が作られました。この音如ヶ谷からは4基の瓦窯跡と数棟の掘立柱建物が発見されました。
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瓦窯遺跡は調査の後、埋め戻されて、原寸大の2基の 瓦窯跡レプリカ が設置されています。
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13時丁度、ゴールの近鉄・高の原駅に到着・解散となりました。本日の歩程は 5.1km でした。