★なら観光ボランティアガイドの会 「東大寺の焼失と今昔ものがたり」 2/19
歴史好きの親友の体調もかなり回復し、距離的にも無理のない企画がありましたので、一緒に参加しました。もう今まで何度となく二人で訪ね歩いたところですが、昔のように一緒に歩けることが嬉しいです。
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12時30分からJR奈良駅前で受付開始。予約制の先着100名限定企画でしたが、欠席者もあり、本日の参加者は70名ほどでした。15名程度で1班となり、各班毎に路線バスに乗って、スタート地点まで移動です。私たちは4班となり、13時15分、最初の 般若寺(はんにゃじ)楼門(国宝)を訪ねました。
般若寺の創建は飛鳥時代(629)と云われていますが、平安時代末期の南都焼討(後述)で悉く焼失しました。般若寺は、鎌倉中期、叡尊(えいそん)が再興しますが、この楼門はその時に再建された時のもので、回廊門形式です。
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般若寺は大和と京を結ぶ京街道(奈良坂とか般若寺越えと呼ばれる)の、大和側の最北端に位置する重要地点にあり、しばしば兵火に逢っています。平安末期の治承4年(1181)12月28日、平清盛の命を受けた
平重衡(しげひら)を総大将とする平家軍は、平家の政権に反抗的で源氏を支援する東大寺や興福寺を討伐するため、南都に攻め入ります。この時、この般若寺付近で放った火が、折からの強風で一気に大火となり、般若寺・東大寺・興福寺の並み居る伽藍を焼き尽くしてしまったのです(南都焼討)。平重衡は「一の谷の戦い」で生け捕りにされ、鎌倉の源頼朝のもとに送られますが、堂々たる立ち居振る舞いに頼朝も妻の北条正子も感服し、厚遇しますが、南都の僧達からの執拗な引渡しを迫られ、仕方なく大和に送り返されます。大和と京の境である当地(木津川市)まで到着した際に、重衡は木津川の河原で斬首されます。首はただちに南都の衆に手渡され、この般若寺の門前に梟首されました。重衡の斬首までの経緯は こちら をご覧ください。
写真は
日本最古・最大の 般若寺・十三重石塔(重文)で、鎌倉時代の建長5年(1253)東大寺の再建のために中国(宋)から来た石工・伊行末の作です。
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次に訪れたのは‥煉瓦造りのロマネスク様式のメルヘンチックな正門です。どこでしょう?
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正門から見た内部庁舎も、見事な煉瓦建築です。正解は 奈良少年刑務所 です。前身は奈良監獄所で、現在全国に7つある少年刑務所の一つです。明治41年(1908)竣工ですから、もう100年以上が経ち、老朽化のため今年度(
平成28年度)末での廃庁(閉鎖)が決まっています。明治時代の五大監獄で残っているのはこの奈良だけで、歴史的価値が非常に高くて、昨年10月には文化審議会が「旧奈良監獄」という名称で重要文化財に指定するよう答申しましたので、官報告示を経て正式指定となる予定です。廃庁後は国が所有権を持ったまま民間に施設の運営を任せ活用させる方向で、活用方法を公募中です。ホテルや展示館などにする案もあるそうですが、耐震工事をするだけでも資金が膨大となりそうだし、重要文化財に指定されれば、更に活用方法にも制約が出てきそうです。ちなみに、構内には江戸時代の奈良奉行所の牢屋2棟が保存されています。
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北山十八間戸。般若寺を再興した叡尊(えいそん)の弟子の忍性が、鎌倉中期に建立した「らい病(ハンセン氏病)の救済収容施設」です。十八間の棟割り長屋形式だったので「北山十八間戸」と呼ばれました。松永久秀と三好三人衆との戦いで焼失し、
現在の建物は江戸時代に再建されたものです。
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夕日地蔵室町時代後期・永正6年(1509)作の、高さ 240cm の大きな地蔵石仏です。興福寺の僧・浄胤が逆修供養(死後の冥福を祈って生前に仏事を行う事)のために造立しました。
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佐保川に架かる長さ15mの大きな石橋。「南都の石橋」として親しまれていて、
かつての京街道の賑わいを示す証人です。慶安3年(1650)に架けられた記録が残っていて、全国でも20番目くらいに古い石橋だそうです。
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五劫院(ごこういん)。東大寺の末寺で、本尊のアフロヘアー姿の五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏坐像と云う珍しい仏像が有名です。阿弥陀如来の異形の一つで、経説によると四十八の大願を成就するために五劫(約21億6000万年)もの永い間、剃髪をすることもなく坐禅・思惟していたので、このような髪形になったそうです。東大寺・勧進所には、これと同じアフロヘアーの五劫思惟阿弥陀仏坐像がおられますが、こちらは手が出ていて合掌された姿になっています。いずれも通常は非公開です。
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五劫院の墓地の入口の地蔵堂。左が見返り地蔵、右が朝日地蔵です。見返り地蔵は顔を左に向けた(向かって見ると右を向いている)珍しい姿で
「誰も忘れものはないか」「誰も置き去りにしていないか」と、何度も振り返りながら衆生の心配をして下さる有難いお地蔵さんだそうです。両地蔵とも室町時代中期・永正13年(1516)の作で、像の高さは 152cm です。
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空海寺。東大寺の末寺ですが、東大寺の八宗兼学の伝統により、華厳宗と真言宗の二宗を受け継いでいます。
弘法大師・空海は延暦23年(804)東大寺で得度受戒し、この寺を建てました。810年には空海は東大寺・第14代別当にも就任しています。本尊は空海作と云われる地蔵菩薩石仏(別名;阿那地蔵、穴地蔵)で、60年に1度しか公開されない秘仏です。
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左:空海寺・本堂前に建つ地蔵十王石仏(矢田地蔵)です。もと矢田寺金剛寺にあったもので、明治初期に移されてきました。大きな光背に十王、閻魔閻羅、地獄の審判官などを従えています。右:山門前に建つ棚田嘉十郎の墓。明治から大正時代の文化財保護運動家で、平城宮跡の保存・復旧に尽くしました。現在の平城宮跡があるのは、この棚田氏たちの尽力と苦労があったからこそです。
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旧東大寺の一角、国宝の転害門を入った所にあり、東隣は正倉院と云う、まさに世界的な文化遺産に囲まれた 奈良市立鼓坂(つざか)小学校です。明治7年(1874)創立の140年を超える奈良でも最古の小学校で、明石家さんまさんの母校でもあります。校内には、さんまさんが在学中に、東大寺の境内で捕まえたムササビの剥製が保存されています。
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東大寺・転害門(国宝)。2度の東大寺炎上にも奇跡的に焼けずに、天平時代のままの形式を残している超貴重な建築物です。大仏守護の神様を、九州の宇佐八幡宮より手向山八幡宮へ迎えた時に通られた山門で、今も神仏習合の習わしの注連縄が架けられています。
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大仏池 から見る大仏殿の大屋根。貞享2年(1685)2月、松尾芭蕉は奈良に来て、東大寺・二月堂のお水取りの行法に参堂していますが、当時の大仏殿は、永禄10年(1567)の松永・三好による東大寺・大仏殿の戦いで焼失したままとなっていたので~元禄4年(1691)に大仏殿の再建が完成するまで~本尊・盧舎那仏は120年以上雨ざらしとなっていました、芭蕉はこの損傷した、雨露に打たれて痛々しい、野ざらしの大仏を垣間見たことでしょう。
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本尊・盧舎那仏(大仏)が雨ざらしだった様子が、江戸時代初期の絵図に残されています。大仏殿の柱穴跡も見えます。
出典:東大寺東塔院跡発掘調査・2015現地説明会でのパンフレットより抜粋(赤字は私の追記)。
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正倉院正門と正倉院正倉(右後方)。もと東大寺の校倉(あぜくら)造りの正倉(倉庫)でしたが、今は宮内庁の所有となっています。これも2度の奈良の大火の中で、不思議と焼失を免れ続けた、創建当時のままの建築物です。奈良時代、光明皇后が亡き夫・聖武天皇のゆかりの美術工芸品などを東大寺に寄進した品物が収蔵されています。明治8年に宮内庁の所有となり、御物(ぎょぶつ=皇室の私有品)および宮内庁管理の文化財は、文化財保護法の対象外となってしまいました。しかし、平成10年(1998)に「古都奈良の文化財」が世界遺産に登録されことになり、世界遺産登録の前提条件として「登録物件が所在国の法律により文化財として保護を受けていることが求められる」と規定していますので、正倉院正倉1棟だけが、前年の平成9年(1997)に急遽、国宝に指定されました。宮内庁管理の文化財としては唯一例外の「国宝」です。
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大仏殿の裏手(北側)の東大寺・講堂跡。講堂は大仏殿と同様に度々の戦火で焼失、永正5年(1508)の3度目の焼失以降は再建されることなく、礎石のみが残っています。東大寺は八宗兼学の学問寺なので、各宗派から多くの学生(がくしょう)が寄宿し修業していたところです。このあと東大寺・勧進所に立ち寄り、大仏殿や南大門は横目で見ながら‥
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本日最後の訪問地、東大寺・西塔跡 を訪ねました。東大寺創建時には、高さ 100m もの七重塔が東西に聳え立っていました。NHKの「歴史ヒストリア」にてCG再現された東大寺・七重塔が最近放送されましたのでご覧になった人も多いかもしれません。西塔は934年に落雷で焼失、再建途上の1000年に、二階まで出来たところで再び焼失しました。一方、東塔は1180年の南都焼討で焼失、1227年に再建されるも1362年の落雷で再び焼失しました。以後、両塔共に再建されず現在に至っています。西塔跡は土壇が残るのみで、礎石なども紛失しています。2010年、東大寺は東塔再建に向けての発掘調査の開始を発表しましたが、もし将来再建された暁には、私たちは天上から見ていることでしょう(エッ?オマエは地獄に落ちているって!‥かも知れませんね。グスン)。今回はここで解散となりました。
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解散後、私たちはJR奈良駅まで歩きました。途中の興福寺・東金堂(国宝)と五重塔(国宝)です。興福寺も幾多の戦火などで焼失、再建されては焼失の繰り返しの苦難を何度も味わっています。現在、江戸時代・享保2年(1717)に焼失した中金堂が再建中で、いよいよ来年(2018)に完成・落慶となる予定です。JR奈良駅近くの居酒屋に入り、お疲れさん会をしてゴールとしました。本日の歩程は 5.9km でした。