日が変わる毎に、晴れたり雨になったりと、安定しない天気が続いています。雨と寒さが嫌いな私は毎度の如く朝も遅くになってから、今日は天気が良く崩れそうもないと確認できたら、歩きに出るようにしています。
個人ウォーク 「飛鳥を歩く ②」 2/16
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今日は天気も良さそうなので、いつものように10時過ぎに家を出て、どこに行こうかと走っているうちに飛鳥に着いてしまいました。前回来た時には明日香村の東周辺を歩きましたので、今日は西周辺を歩くことにしました。写真は明日香村の某所で見かけた飛鳥のロゴマークです。金色の鳳凰をデフォルメしたデザインがちょっと気に入って撮ってみました。
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川原駐車場に車を止め、甘樫丘(あまかしのおか)に登ってみました。蘇我入鹿の邸宅跡を見ながら丘に登り、川原展望台から甘樫丘展望台へと続く丘の上の遊歩道を歩きます。風もなくポカポカ陽気で、色々な鳥が姿を見せてくれました。
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北端の 甘樫丘展望台 に到着。正面(北方)には、大和三山の耳成山と天香久山(あまのかぐやま)が‥
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西方には金剛山、葛城山そして二上山‥手前には大和三山の畝傍(うねび)山が望めました。ワイワイと賑やかな声が聞こえて10数名の同年代ウォーカーさんたちが登って来ました。兵庫県伊丹市から来られたとのことで、丁度お昼前だったので、一緒に雑談しながら昼食としました。
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昼食後は、甘樫丘南端から下山し、西方向へと歩きます。小高い丘の上に立つ 第40代・天武天皇、第41代・持統天皇 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ) です。考古学名は野口王墓古墳と云います。

天武・持統 両天皇の夫婦そろっての 合葬陵 で、古墳の形状は高貴な人を祀る八角墳です。先に亡くなった天武天皇の石棺の脇に、のちに、天皇として初めて火葬された持統天皇の銀製の骨壺が収められました。しかし、鎌倉時代に石室内の宝物などが盗掘されてしまいます。この盗掘については、すぐさま京都にも伝わり大騒ぎとなり、盗掘の様子を実地検分するため勅使が派遣されました。盗掘に関する色々な記録が残されています。
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藤原定家の日記「明月記」には、文暦2年(1235)の4月2日以降、数回にわたる記述がみられます。4月22日には「盗掘され、白骨化した(天武天皇の)ご遺体が相連なり、白い髪が残っていた」と伝文しています。また、6月6日には「山陵を見奉る者からの又聞きであるが、話を聞くたびに哀慟(あいとう)の思いが増す。御陵は再び埋め固めたそうであるが、定めし粗末で簡略なやり方であったろう。骨を納めた「銀はこ」を盗むため、持統天皇の御骨が道頭に遺棄されていたという。塵灰とは言え、探し出し拾い集めてもとに戻すべきべきであろう。悲しい事だ」と定家は憂慮しています。全く同感です。
阿不幾乃山稜記(あふきのさんりょうき)、後述」によると、盗掘された日は3月20日~21日の2日間の夜に乱入されたともあり、1日で持ち出せなかったほど宝物があったことが読み取れますし、盗掘後にも各種宝物がとり残されていたことなども事細かに記されています。尚、盗掘者は3年後に捕らわれて京の町を引き回されたそうです。しかし、この事件の60年後にも再び盗掘がありました。公家・三条実躬(さねみ)の「躬卿記」には、「天武天皇陵の盗掘者を捕う。犯人は僧侶。このときは荒らされ、天皇の髑髏(しゃれこうべ=頭骨)さえ持ち出された」と書いています。つまり、墓の中は既に荒らし尽くされており、犯人は腹立ち紛れに洗いざらい残っていた御骨まですべて持ち出したようです。この相次ぐ盗掘等で石室内は空っぽとなってしまい、江戸時代には旅人も石室に自由に出入りしていたそうです。
ところが、
江戸末期頃には、野口王墓古墳と見瀬丸山古墳のどちらが天武・持統合葬陵であるかが分からなくなってしまいます。両者の見解が転々とした末に、明治4年、政府(宮内省)は、天武・持統天皇陵は「見瀬丸山古墳」であると治定しますが、これが後にくつがえされるのです。それが明治13年(1880)に京都・栂尾の高山寺で発見された、先述の「阿不幾(=青木)乃山稜記」です。この盗掘の様子を実地検分した勅使が残していた記録で、昔「大和青木陵」と呼ばれていた此処(野口王墓古墳)が天武・持統天皇陵に間違いないと立証されたのです。翌明治14年、宮内省は「野口王墓」が天武・持統天皇陵だったと訂正し、再治定しまいた。この例のように、宮内庁の陵墓の治定は不確かなものが多く、しっかりとした考古学的な検証が望まれるのですが、陵墓には一切立ち入りを認めない宮内庁の姿勢は崩れそうもありません。
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天武・持統天皇陵の全景。このあと飛鳥歴史公園館に立ち寄り、猿石へと向かいました。
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吉備姫王(きびひめのおおきみ)檜隈墓。吉備姫王は、第29代・欽明(きんめい)天皇の孫に当たり、第35代・皇極天皇(
重祚して第37代・斉明天皇)、第36代・孝徳天皇の母となった人でした。
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吉備姫王墓内にある「猿石」。四体の石造物を総称して猿石と呼ばれます。山王権現(右)と女性(左)と‥
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僧(左)と男性(右)です。これらの石造物はもともとは欽明天皇陵の前に並べられていたようで、江戸時代に欽明天皇陵の南の田んぼから掘り出されて、現在の位置に置かれたそうです。飛鳥の石造物の多くと同様に、誰が何のために作ったのかは、諸説あるも、謎のままです。
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吉備姫王墓のすぐ近くにある 第29代・欽明天皇 檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ) です。考古学名は平田梅山古墳と云います。
欽明天皇は聖徳太子の祖父にあたり、太子は存命中、この祖父を畏敬していたと云われています。
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古墳の石室上部が転げ落ちた、鬼の雪隠(せっちん)と、古墳の石室下部の鬼の俎(まないた)を見て‥
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これまた飛鳥の謎の石造物・亀石 を見て歩きます。ポカポカ陽気で亀も気持ち良さそうです。
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聖徳太子が生まれた 橘寺 が目の前です。橘寺と云うのは通称で、正式には仏頭山上宮皇院菩提寺と云います。
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橘寺は久しぶりだったので、拝観料を払って入りました。聖徳太子自身が自分の生まれた地に創建した寺と云われています。本堂(太子堂)奥には本尊・聖徳太子像が祀られています。
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橘寺という名前について:第11代・推仁天皇の命により不老長寿の薬を探しに、海の向こうの常世国へ出掛けた田道間守(たじまもり)。10年かかって秘薬を見つけ、喜び勇んで持ち帰った時には既に垂仁天皇は亡くなっていました。田道間守は大変悲しみ、後を追って殉死します。持ち帰ったのは「トキジクノカグノコノミ(非時香菓)」と呼ばれる橘の実でした。その種をこの地に蒔いたら、芽が出て実がなりました。そこから、この地に建てられた寺は橘寺と呼ばれるようになりました。今も境内にはヤマトタチバナ(橘)の木が沢山植えられていて、ちょうど黄色く熟し始めていました。
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橘寺境内にある石造物・二面石。大きな石の左側にはゆがんだ顔(悪面)が、右側にはおっとりした顔(善面)が彫られています。人の善悪二相を表したものと云われています。
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聖徳太子で有名な橘寺ですが、万葉集に詠まれている橘寺に関する和歌は、この一首だけです。
橘(たちばな)の 寺の長屋に わが率宿(ゐね)し 童女放髪(うなゐはなり)は 髪あげつらむか 作者不詳
童女放髪(うなゐはなり)とは、髪を伸ばしたままにして結い上げない15歳くらいまでの少女を云います。そんな少女も、今はもう髪上げをするような一人前の女性に成長したのかなぁ、と当時を懐かしんでいる歌です。それにしても‥そんな少女とお寺で一緒に寝た‥とは、なんという歌なんでしょうね。
万葉のロマンと云うか、おおらかな時代を感じながら、川原駐車場へと引き返しました。本日の歩程は 8.2km でした。