不安定な天気の合間を縫って、晴の日を選びながら、3-5時間程度のウォーキングを楽しんでいますが、ウォーキングの記録が滞(とどこお)っています。先月には、好きな「山の辺の道」界隈には、たて続けに3回も行きましたので、遅ればせながら、まずは1回目のウォークを取り上げました。
①奈良観光ボランティアの会 「菩提山道~帯解から円照寺・弘仁寺を経て櫟本へ」 3/19
菩提山(=菩提仙、ぼだいせん)と言いますのは、奈良市南東部の山間の地名です。この名前は仏教の故地に因んで付けられた地名の一つで、奈良市内には同様の由来の地名が他にも、誓多林(せいたりん)・大慈仙(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)・鹿野園(ろくやおん)などがあります。今回のウォークでは奈良市から天理市にかけて歩きますが、円照寺から弘仁寺までが「山の辺の道(北部)」の区間です。
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集合地はJRまほろば線・帯解(おびとけ)駅で、昼の12時半から受付開始です。この会は予約申込制のウォークで、当日は到着・受付順に10人づつがグループとなって、スタートしていきます。私たちは第3班として出発しました。
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帯解駅のすぐ近くにある 帯解寺(おびどけでら)。本尊は弘法大師作と云われる「子安地蔵菩薩」です。第55代・文徳天皇の后・藤原明子は長い間、子宝に恵まれずにいたところ、春日大明神のお告げにより
帯解子安地蔵菩薩にお祈りすると、ほどなく懐妊、惟仁親王(のちの清和天皇)を安産されました。文徳天皇は大変喜ばれ、寺号を改めさせ、無事に帯が解けた寺=帯解寺としました。以来、現在に至るまで、安産祈願の対象として広く信仰を集めています。美智子妃殿下、秋篠宮妃紀子殿下、皇太子妃雅子殿下の各ご懐妊時にも安産岩田帯や御守りなどが皇室に献上されています。
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帯解寺からはひたすら東へと歩を進め、「山の辺の道」に合流し、円照寺 に立寄りますが、門跡寺院で、一般人が入れるのは山門までです。中宮寺、法華寺、円照寺の三寺を、大和の三大門跡寺 と云います。
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竜王池。「山の辺の道」の休憩ポイントです。池の真ん中に島があり、小さな祠が祭られています。
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奈良市の南端、虚空蔵山の山腹にある 弘仁寺。嵯峨天皇の勅願により空海が創建したとも云われる古寺ですが、元亀3年(1572)松永久秀の兵火により大半の伽藍が焼失しました。ここから「山の辺の道」を離れて、天理市櫟本(いちのもと)方面に向います。

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和邇坐赤阪比古(わににいます あかさかひこ)神社。古代豪族・和邇氏の氏神です。この辺り一帯は、昔は大和国添上郡和尓と呼ばれていた、和邇氏一族の居住地でした。
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建物の後方に見える山が、東大寺山古墳 です。周辺一帯の古墳数は200基以上で、東大寺山古墳群と呼ばれます。神護景雲3年(769)に、この地が東大寺領となり、こう名付けられました。
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和邇下(わにした)神社 の拝殿。4世紀後半から5世紀初頭に築かれた前方後円墳の墳丘上に建てられている神社です。和邇下神社古墳は、東大寺山古墳群の一つで、和邇氏の有力者が葬られていると云われています。
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和邇下神社の境内の一角にある 柿本寺(しほんじ)跡 です。柿本寺は、柿本人麻呂の氏寺で、和邇下神社の神宮寺でした。人麻呂は和邇氏の一族で、この地・櫟本で生まれました。
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柿本寺跡近くに、柿本人麻呂の石像(左)と、歌塚の石碑(右)が建てられています。人麻呂は石見国(島根県益田市)で亡くなったと云うのが定説となっています。
歌塚は、任地の石見国で死んだ人麻呂の遺髪を、後の妻である依羅娘女(よさみのおとめ)が持ち帰り、葬ったものと伝えられています。それにしても石碑の文字は達筆過ぎて、私などは「歌」の字はなんとかそれらしく読めても、「塚」の字は全く読めません。この石碑は、江戸時代中期の享保17年(1732)に建てられたもので、石碑の文字は第111代・後西天皇の皇女、宝鏡尼の揮毫だそうです。
今回のウォークは、さして目新しいものもなく、暖かい日和の中で春を感じながらの歩きを楽しみました。本日の歩程は、スタートのJR帯解駅からゴールのJR櫟本駅まで 13.8km でした。