春の「山の辺の道」ウォークの続きです。
 ②個人ウォーク 「長岳寺から祟神天皇陵・景行天皇陵を経て桧原神社まで・往復」 3/22
 ③個人ウォーク 「玉列神社から大神神社・桧原神社を経て黒塚古墳へ」 3/29

2回目のウォークは、3回目に歩いたコースの一部分で、重複しますので、ここでは3回目のウォークとして纏めて取り上げました。さて、山の辺の道の南の起点は、現代のウォーキングでは桜井駅とか三輪駅とするのが一般的ですが、古代の起点は海石榴市(つばいち)跡周辺と云われています。3回目のウォークでは、海石榴市から東部へと伸びる初瀬街道(長谷街道、伊勢街道とも呼ばれる)沿いの近鉄・大和朝倉駅からスタートとしました。
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大好きなツバキ(椿)の中でも、マイ・ベスト5に入る品種「月光(がっこう)」です。真っ赤な花びらの中の花芯が白い花びら状になっているのが特徴です。
写真は今回、3年ぶりに訪れた玉列(たまつら)神社で撮影したものです。
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ちなみに、こちらがご近所で撮った、
花芯も赤い花びら状になる「日光(じっこう)」です。月光・日光とも、京都東山・哲学の道にある霊鑑寺の「月光椿・日光椿」が特に有名です。どちらも園芸分類的には、紅色系・唐子(からこ)咲きの椿 です。
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今回、近鉄・大和朝倉駅をスタート地点としたのは、久しぶりに
玉列(たまつら)神社の「椿まつり」を見たかったからです。改札口を出て準備を整えていたら、ブロ友のNさんと遭遇です。Nさんも椿まつりを見に来たそうです。駅から神社へと続く小道には「椿まつり」の幟(のぼり)が春風になびいています。「ツバキも綺麗やし、神社で振舞われる”にゅうめん(煮麺、入麺)”も楽しみですね」「そうそう、半分は にゅうめん食べたさもあるなぁ」なんて他愛ない話をしながら神社に向います。
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三輪山の南麓にある 玉列(たまつら)神社 に到着です。大神(おおみわ)神社の摂社で、玉椿大明神とも呼ばれています。「ちょっと人出が少ないですねぇ」「おかしいなぁ、人が一杯居てもいいのに、どうしたのかなぁ」。2-3人の参拝者がおられるだけです。????ようやく謎が解けました。以前に来た時は3月29日だったので、てっきり二人とも3月29日と思い込んでいたのですが、3月の最終日曜日が「椿まつり」の日でした。今年は3月26日が日曜日で、椿祭りは三日前に終わっていました。お互い「うっかりしていたなぁ、にゅうめんが食べられずに残念や」‥ということで、神社境内に植えられている沢山の椿(冒頭の月光など)を鑑賞したあと、私はNさんと分かれて、「山の辺の道」へ行くことにしました。
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大和川(初瀬川)沿いに「山の辺の道」へと向います。馬井手橋の東側にある 金屋河川敷公園 です
。古代、中国の使節たちは、難波津から川船を利用して、この地に到着しました。ここは当時、日本一の交易の場所であり、海石榴市と呼ばれ、難波津の内港として、大和と中国大陸を結ぶルートの起点でした。推古7年(607)、遣隋使の小野妹子が、隋の使者・裴世清(はい せいせい)らを伴って帰国した時には、朝廷(推古天皇)は、この地で錺馬(かざりうま)75頭を仕立てて盛大に迎えたと云われています。公園には当時を偲んで陶製の錺馬が置かれています。正面の山は朝倉富士の別名がある外鎌山(とがまやま)、右手には音羽山が見えています。
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ここに上陸した中国の使節たちは、大陸の色々な品物以外に、日本に初めて「仏教」をもたらしました。
馬井手橋の傍らある 仏教伝来之地の石碑 です。ここから「山の辺の道」に入ります。
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往時の海石榴市を偲ぶものは、今では殆ど何もありません。山の辺の道を少し北に進むと、小さな観音堂があり、海石榴市観音 と呼ばれています。堂内の写真は昔(2013)に撮ったものです。
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「金屋の石仏」を過ぎ、志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社 に立寄りました。この神社周辺が 第10代・祟神(すじん)天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)跡 でした。戦後の日本史では、崇神天皇に先行する9代の天皇は、記紀編纂の都合上、創作された架空の天皇であるとみなされ、大和朝廷の創始者である崇神天皇が最初の天皇であるとする研究者も少なくありません。
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大神(おおみわ)神社。若い女性の参拝が結構多いです。屋内の休憩所で温かいお茶を頂きながらお昼としました。
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大神神社の摂社、活日(いくひ)神社祟神天皇に召されて大神の掌酒(さかびと)となった高橋活日命を祭っています。日本書紀には、活日命は大物主命のお告げにより、一夜で良質の神酒を造ったと記されており、三輪は「日本酒発祥の地」として、高橋活日命は杜氏の始祖であり、「お酒の神様」として、今も日本中の杜氏や蔵元から崇められています。
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大神神社の摂社、狭井(さい)神社 です。鳥居よりも注連柱(しめばしら)の方が古代からの神社であるように感じます。
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山の辺の道の狭井川近くに建てられている 初代・神武天皇(左)と皇后(右)の歌碑です。皇后の名は、日本書紀では「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたら いすずひめ)」と記され、古事記では「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたら いすきよりひめ)と記されています。三輪の神様であった大物主神(=大国主神)の娘です。磐余彦(いわれひこ=神武天皇の即位前の名前)は東征以前に九州・日向で既に妻を娶っていましたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、天津神(あまつかみ)系と国津神(くにつかみ)系とに分かれていた日本神話の神様の系譜が1つに統合されることになり、日本最初の天皇が誕生していくのです。
 ”葦原(あしはら)の しげしき小屋に 菅畳(すがたたみ) いやさや敷きて わが二人寝し”  神武天皇
 ”狭井河よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす”  伊須気余理比売
歌の意味:神武天皇は「葦のいっぱい生えた原の粗末な小屋で、菅で編んだ敷物をすがすがしく幾枚も敷いて、私たち二人は寝たことです」と二人が結ばれた頃を回想しています。一方、皇后は「狭井川の方からずっと雨雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいている。今に大風が吹こうとしています」と、この地から見た大和の風景を詠んでいます。
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桧原(ひばら)神社 に到着です。大神神社の摂社で、私の一番好きな神社で、シンプル・イズ・ベストの神社です。注連柱の奥に、有名な三つ鳥居があります。ここで西方に聳える二上山を見ながら休憩としました。
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山の辺の道から三輪山が望める最後の地点で、大好きな額田王(ぬかたのおおきみ)の歌碑 が置かれています。
”うま酒 三輪の山 青丹よし奈良の山の 山のまに い隠るまで 道のくまいさかるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 心なく雲の 隠さふべしや" 

反歌   ”三輪山を しかもかくすか 雲だにも 心あらなむ かくさぶべしや”  額田王
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、
友好国・百済を支援すべく朝鮮半島に出兵するも、白村江の戦いで、倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済救済は失敗に終わり逃げ帰ってきます。唐・新羅連合軍が日本に攻め込んでくる脅威が大きくなり、667年、中大兄皇子は飛鳥から近江へと都を移します。この時、額田王なども一緒に旅立ちますがが、住み慣れた懐かしい飛鳥を離れることに心を痛めます。せめてもう一度、三輪山を見ておきたいと思うのですが、非情にも雲が三輪山を隠してしまいます。その時に詠んだのが、この和歌です。三輪山こそ額田王の心のふるさとの山だったのでしょう。
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第12代・景行天皇陵全長約300mの広大な前方後円墳で、古墳の大きさでは全国第8位です。考古学名は渋谷向山古墳と云います。景行天皇と云っても馴染みがないかも知れませんが、日本武尊(やまとたける)のお父さんです。遠くに大和三山の耳成山と畝傍山が並んで見えています。左手 中ほどの小高い丘が、卑弥呼(ヒミコ)の墓ではないかとも云われている箸墓(はしはか)古墳です。
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先に紹介しました磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)の主であった、第10代・祟神天皇陵 です。全長242mの前方後円墳で、考古学名は行燈山(あんどんやま)古墳と云います。
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天理トレイルセンターは改装中で3月末まで閉鎖、近くの 長岳寺 に立寄りました。山門前に勧請縄(かんじょうなわ)が架けられていました。毎年10月末から11月にかけて公開される狩野山楽筆の「極楽地獄図」が見ものです。
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長岳寺を最後に「山の辺の道」を離れ、黒塚古墳 を見学したあと、JR柳本駅まで行ってゴールとしました。3/22の歩程は、長岳寺から桧原神社までの往復で 8.9km、3/29の歩程は、近鉄・大和朝倉駅からJR柳本駅までの 10.7km でした。