登山らしきものから遠ざかって、1年近くがたちました。身体は正直なもので、体力が一気に低下しているのを実感します。里山あたりを散策しても、少し歩くと息が切れ、速度もガタ落ちです。早く体力も気力も回復したいものです。
そんな状態ですから、今は歩きに出掛ける所も、地元や南山城の里山、奈良公園、山の辺の道、飛鳥、斑鳩、矢田丘陵、生駒山系など、アップダウンの激しくない、歩き慣れたところばかりです。今回は「ならまち」を散策しました。
★個人ウォーク 「ならまち散策」 5/26
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猿沢池と興福寺・五重塔。本日も暑くなりそうで、歩きはじめて早々に猿沢池のベンチで一休みです。

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「何かちょうだい」と早速食べ物をねだりに来た鹿さん。「やってもいいけど、君も奈良の鹿なら、その自覚をしっかり持ってるか?」「何?その自覚って?」「「知らんのんかいな。じゃあ教えてあげるわ」
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ジャ、ジャ~ン!これが奈良公園に住む鹿の「定め」じゃ!ゴミやビニールは食っちゃいかん。車には十分注意せよ。犬が来たら逃げよ。人間とは仲良くして、角や足を振り上げてはならぬ、である。とりわけ大事なのは、君は奈良の顔であることを常に自覚し、日々研鑽せな、あかんのやでぇ。知ってたか?
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「テヘヘ」と、うつむき加減で舌をペロリと出した様子では、この鹿さんは知らなかったようでしたが、今は新しい角も生えて、バンビのような白い斑点のある毛に生え変わっている時期でもあり、とても可愛いかったので、餌はあげておきました。
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猿沢池の南端を流れる率川(いさがわ)にかかる小さな石橋・嶋嘉橋(しまがばし)。ここは 平城京上ツ道(のちの伊勢街道)の起点 にあたり、この石橋は江戸時代中期・明和七年(1770)五月に 橋より西の椿井町に住んでいた嶋屋嘉兵衛が私財を投じて架設したもので、嶋屋嘉兵衛の名を取り「嶋嘉橋」と名付けられました。橋名の表示はどこにもなく(地図にも載っておらず)、この橋の名前を知っている人は少ないです。
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嶋嘉橋の下には「率川地蔵」と云われる石舟に乗った沢山の地蔵が祀られていますが、これは明治の廃仏毀釈で川に捨てられた石仏などを、のちに拾い集めて中州に祀ったものです。
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奈良町資料館に立寄った後、なんとなく 元興寺塔跡・山門 に来ました。奈良町は、昔は一帯が元興寺の広大な敷地でした。平城京遷都に伴い、飛鳥にあった法興寺を奈良に移築して元興寺と名を変えたことはご存知の通りです。しかし飛鳥で蘇我氏(蘇我入鹿)は藤原氏(藤原鎌足と中大皇子)に敗れてしまって、蘇我氏の氏寺であった法興寺(のちの元興寺)が平城京に来て、藤原氏の氏寺である興福寺の威力に勝てるわけがありません。10世紀頃から寺は次第に衰退し、室町時代の宝徳3年(1451)の徳政一揆では殆どの建物を焼かれてしまい、極楽坊、観音堂、五重塔、吉祥堂、南大門だけが残り、焼け跡には町家が建ち並びはじめました。この頃には寺も分離し、宗派も変わり、世界遺産・元興寺極楽坊は真言律宗・西大寺の末寺となり、この元興寺塔跡(元興寺観音堂)は華厳宗・東大寺の末寺となりました。
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元興寺塔跡。室町時代以降は、元興寺観音堂は観音堂と五重塔を中心とする寺院でしたが、江戸時代末期、明治になる10年ほど前の安政6年(1859)に、近隣火災からの類焼で、観音堂も五重塔も焼失してしまいました。寺伝によれば、この五重塔は高さ24丈(74m)であったと云われ、京都・東寺の五重塔よりも高い超大型の塔に相当し、残っていれば国宝指定は間違いなしだったでしょうが、修復されることもなく、今は礎石のみが当時の面影を伝えています。
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元興寺塔跡を出たあと、どこへ行こうか、余り観光客が来ない、静かな所がいいなァと思い巡らしていたら、璉珹寺(れんじょうじ)が脳裏に浮かびました。今は丁度5月なので、知る人ぞのみ知る、あの秘仏が見られるはずです。境内に植えられている ニオイバンマツリ のさわやかな芳香に迎えられて入場・拝観しました。
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璉珹寺の秘仏・阿弥陀如来立像(重文)です(写真は左の看板画像のアップ)。近年までは50年に一度しか開帳されない秘仏でしたが、今は毎年5月のみ公開されるようになりました。何故秘仏なのか。この阿弥陀如来像は「光明皇后をモデル」としたもので、世にも珍しい女身の裸像なのです。袴を付けておられるのはそのためのようで、50年に一度、新しい袴に付け替えられますが、着替えの時には男性は部屋に入ることは許されず、女性だけの手で取り替えられます。以前から拝観するたびに聞きたかったのですが、今日は思い切ってお寺の男性の人に聞いてみました。「失礼ですが本当に女性像なんですか」「はい。一度写真で見ましたが、間違いなく女性像でした」とのことでした。初めて訪れた時には、寺への道筋に立てられた看板に 「秘仏・女人裸形・阿弥陀仏」 と大きく書かれていて、拝観に行くのも気恥ずかしかったことを覚えています。
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祟道天皇(すどうてんのう)社。祟道天皇って何代目の天皇?と聞かれそうですが、父は第49代・光仁天皇、兄は第50代・桓武天皇で、立太子された時の名前は早良(さわら)親王と云います。兄の桓武天皇が即位した時に、早良親王は皇太子となり、次の天皇を約されたのです。ところが延暦4年(785)に藤原種継暗殺事件が起こり、早良親王が関与したとして幽閉され、親王は無実を訴えるために絶食しますが、淡路島に配流される途中で死亡、淡路島に葬られました。その後、京都では皇室関係の人々の発病や病死、疫病や洪水の発生が相次ぎ、早良親王の祟りであるとして、
延暦19年(800)、「崇道天皇」と謚号(しごう、おくりな)を追贈され、遺骨は淡路島から大和の八島陵に移葬されました。この神社はその早良親王を祭神として祀っていますので、祟道天皇社と呼ばれます。
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十輪院本堂(国宝)。ならまちに戻り、十輪院を訪ねました。もとは元興寺の別院だったとも云われていますが、寺の創建や開基などは明確ではありません。国宝の本堂は、
勾配のゆるやかな本瓦葺の屋根を持つ寄棟造の優美な建物で、全体に軒や床が低く小ぶりですが、中世の住宅を思わせるしっとりとした建物は、ドイツの著名な建築家ブルーノ・タウトも称讃しています。タウトは1933-1936年に日本に滞在し、その間に日本の多くの建築物を見て廻り、日本美の素晴らしさを世界に広めました。中でも京都の桂離宮を絶賛したことは有名です。著書「忘れられた日本」の中で、「一般に外国人は、官庁発行の案内書に賞賛されているような事例に、東洋文化の源泉を求めようとする。しかし、奈良に来たら、まず小規模ではあるが非常に古い簡素優美な十輪院を訪ねて静かにその美を観照し、また近傍の素朴な街路などを心ゆくまで味わうがよい」と述べています。
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本堂内には花崗岩で作られた重文の石仏龕(せきぶつがん)があります。境内でも古い石仏が色々と見られます。左:不動石仏(鎌倉時代中期)、右:合掌菩薩像(鎌倉時代中期)。
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名勝大乗院庭園。大乗院は、興福寺の別院で、平安時代から江戸時代にかけて栄えた門跡寺院の一つでした。明治初年に廃寺となりましたが、
庭園は残され、戦後その一部が整備され、昭和33年(1958)に国の名勝に指定されました。敷地の一部は奈良ホテルとなっています。
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久しぶりに ”奈良のピラミッド” と云われる 頭塔(ずとう) に入場しました。
1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の土製の塔で、盛土の表面を石で覆い、44体の石仏を配した日本では稀有の仏塔です。一般には、藤原広嗣の祟りで死んだ奈良時代の僧・玄昉の頭を埋めたとの伝説から「頭塔」と云われていますが、「東大寺要録」には奈良時代の僧・実忠が国家安泰を祈って造営したとあり、そこには「土塔(どとう)」と記されています。「どとう」が転訛して「ずとう」となったようです
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44体の石仏の一つ、東面にある「如来三尊像(浮彫如来及両脇侍像)重文・奈良時代後期」です。
見学後は、奈良公園・浮見堂で一服し、春日大社・一の鳥居から奈良県庁、奈良女子大へと歩き‥
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聖武天皇陵(左)、藤原不比等公之碑(右)を経て、鴻池でゴールとしました。本日の歩程は 12.6km でした。