「気の向くまま、車の向くまま」の散策での、レポート第3弾 は、久しぶりに ”丹波の佐吉” です。まずは、その①として、奈良県宇陀市の五社神社に鎮座する佐吉の狛犬です。
★宇陀市・五社神社
五社神社は、”丹波の佐吉” に関する過去の研究資料では全く知られていなかった所で、2010年頃に初めて、この神社の狛犬がNET上で紹介されました。五社神社の名前と住所から正しい位置を確かめようと、NET上の地図で検索しました。結果は、Yahoo地図やMapionやMapFanでは神社の名前や正確な位置は表示されず、辛うじて、Googleマップとゼンリン地図(いつもNAVI)で五社神社の名前と位置が確認出来ました。これを頼りに山間部の奥地にある神社へと向いました。
対向車が来たら、すれ違いにも一苦労しそうな狭い山道を、不安にかられながら進んでいきますと、道が分岐する角地に、お目当ての五社神社がありました。
★宇陀市・五社神社
五社神社は、”丹波の佐吉” に関する過去の研究資料では全く知られていなかった所で、2010年頃に初めて、この神社の狛犬がNET上で紹介されました。五社神社の名前と住所から正しい位置を確かめようと、NET上の地図で検索しました。結果は、Yahoo地図やMapionやMapFanでは神社の名前や正確な位置は表示されず、辛うじて、Googleマップとゼンリン地図(いつもNAVI)で五社神社の名前と位置が確認出来ました。これを頼りに山間部の奥地にある神社へと向いました。
対向車が来たら、すれ違いにも一苦労しそうな狭い山道を、不安にかられながら進んでいきますと、道が分岐する角地に、お目当ての五社神社がありました。
石鳥居の扁額が「五社神社」であることを確かめて、石段を上って行きます。
石段を上がりきった所から正面に、天を突くような沢山の大杉に囲まれた、拝殿と本殿が見えました。
拝殿の奥、本殿へ繋がる石段脇に、一対の狛犬がいました。
おお~っ!この狛犬は‥佐吉の狛犬に間違いありません。会いたかった~!
右手の阿形・狛犬のまん前まで行って挨拶です。頭を撫でてあげたら、「よ~来てくれたなぁ」と微笑んでくれたような気がしました。ぺっちゃんこの頭、吸い込まれそうな奥深い瞳‥どれもこれも佐吉特有の作風です!
「奉納」の文字も、深く彫られていて、佐吉であることが窺い知れました。
吽形・狛犬の台座に刻銘されている石工銘、「石匠 照信 花押」と、佐吉作であることが認められました。
前から見たり、うしろから見たり、四方八方から時間の許す限り、”佐吉の狛犬” を鑑賞しました。
帰りぎわには小雨が降ってきました。狛犬の涙雨に見送られて、五社神社をあとにしました。
★文祢麻呂の墓五社神社から車で更に15分程、山の中へ上っていきますと、文祢麻呂の墓があり、ついでに立ち寄ってみました。
文祢麻呂 は、「日本書紀」などに登場する人物で、天智天皇が近江で亡くなると(672年)、天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武天皇)との間で跡目争いが起こります(壬申の乱)。その争いで、文祢麻呂は大海人皇子軍の将として軍を率いて戦い、7月22日の瀬田橋の戦いでは大友皇子軍を破ります。翌日、大友皇子は自殺して、壬申の乱は終結しました。天武天皇時代をつくった功臣でした。
文祢麻呂墓。江戸時代の天保2年(1831)に、墓誌が入った銅箱や金銅壷等が発見されました。金銅壷には火葬骨が入ったガラス壷が収められていて、銅製の墓誌には二行にわたり 「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻 呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」 と記されていて、ここが慶雲4年(707)に亡くなった文祢麻呂の墓であることが分かったのです。4点の出土品は地元の竜泉寺に保管されていましたが、明治11年(1878)に帝室博物館(現在の東京・国立博物館)に収蔵され、昭和27年(1952)には国宝に指定されました。
”丹波の佐吉”の狛犬と、”文祢麻呂の墓”を効率よく訪ねることが出来た一日でした。
石段を上がりきった所から正面に、天を突くような沢山の大杉に囲まれた、拝殿と本殿が見えました。
拝殿の奥、本殿へ繋がる石段脇に、一対の狛犬がいました。
おお~っ!この狛犬は‥佐吉の狛犬に間違いありません。会いたかった~!
右手の阿形・狛犬のまん前まで行って挨拶です。頭を撫でてあげたら、「よ~来てくれたなぁ」と微笑んでくれたような気がしました。ぺっちゃんこの頭、吸い込まれそうな奥深い瞳‥どれもこれも佐吉特有の作風です!
「奉納」の文字も、深く彫られていて、佐吉であることが窺い知れました。
吽形・狛犬の台座に刻銘されている石工銘、「石匠 照信 花押」と、佐吉作であることが認められました。
前から見たり、うしろから見たり、四方八方から時間の許す限り、”佐吉の狛犬” を鑑賞しました。
帰りぎわには小雨が降ってきました。狛犬の涙雨に見送られて、五社神社をあとにしました。
★文祢麻呂の墓五社神社から車で更に15分程、山の中へ上っていきますと、文祢麻呂の墓があり、ついでに立ち寄ってみました。
文祢麻呂 は、「日本書紀」などに登場する人物で、天智天皇が近江で亡くなると(672年)、天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武天皇)との間で跡目争いが起こります(壬申の乱)。その争いで、文祢麻呂は大海人皇子軍の将として軍を率いて戦い、7月22日の瀬田橋の戦いでは大友皇子軍を破ります。翌日、大友皇子は自殺して、壬申の乱は終結しました。天武天皇時代をつくった功臣でした。
文祢麻呂墓。江戸時代の天保2年(1831)に、墓誌が入った銅箱や金銅壷等が発見されました。金銅壷には火葬骨が入ったガラス壷が収められていて、銅製の墓誌には二行にわたり 「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻 呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」 と記されていて、ここが慶雲4年(707)に亡くなった文祢麻呂の墓であることが分かったのです。4点の出土品は地元の竜泉寺に保管されていましたが、明治11年(1878)に帝室博物館(現在の東京・国立博物館)に収蔵され、昭和27年(1952)には国宝に指定されました。
”丹波の佐吉”の狛犬と、”文祢麻呂の墓”を効率よく訪ねることが出来た一日でした。
コメント
コメント一覧 (6)
まだ見られていないのがあったんですね。
小さいのが置いてあるのは誰かの奉納なのでしょうか。
文祢麻呂という方の存在は知りませんでした。
コメント有難うございます。
佐吉の狛犬は3/4強くらい訪ねたところで、あと1/4弱残っています。出来るだけ機会をみつけて全制覇したいです。
小さな狛犬の置物は、私と同じような佐吉の狛犬ファンが訪ねて来て、置いていったのではないかと思います。狛犬の置物自体が珍しいです。
コメント有難うございます。
佐吉の狛犬に出会うと、子どものように嬉しくなってしまい、お恥ずかしい次第です。佐吉の狛犬は、なぜか不便な場所の無名に近い神社に多いので、事前に位置を地図でしっかり確認しておく必要があります。今までに何回か探し出せないことがありました。壬申の乱は知っていましたが、文祢麻呂は今まで名前だけしか知りませんでした。
「文祢麻呂の墓」のこと 壬申の乱で活躍した功労者なのですね 読書中の「飛鳥の風・持統女帝」(吉田知子著)は まさに壬申の乱前後の様子が書かれています 飛鳥の地を訪ねたことで 古代の様子を想像することが楽しくなりました 当時は中国方面との交易が盛んで人の行き来も複雑に入り混じっていた時代だったようですね 歴史を知ることの意味をこの年で知りました
コメント有難うございます。
佐吉の狛犬は独特の個性があります。一見怖そうに見えますが、じっくり見ていると愛嬌があり、確かに今風に言えばアイドル性は十分ですね。多分佐吉の顔も、毎日重くて硬い石と合っていたので、狛犬のように「気難しそうな、しかめっ面」だったかもしれませんね。飛鳥は中国との交易が盛んで、仏教の渡来や色々な先進技術が伝わっていますね。