★宇陀市菟田野(うたの)・平井大師山
時間と体力が許す限り ”丹波の佐吉” の狛犬 を訪ね歩いています。佐吉は狛犬だけでなく、道標・燈籠・仏像などの石造物の名品を数多く残しています。過去にも幾つかの石燈籠や石仏を取り上げましたが、今回は奈良県・宇陀市にある「平井大師山・四国八十八ヶ所霊場」を巡り歩きました。大師山には
、佐吉が弟子たちと共同で制作した約百体の石仏があります。
daisiyama01
大師山へ入る山道は、乗用車1台が通れるだけの狭くて曲がりくねった道を行かねばなりません。今日は雨が降りそうな曇天でしたので、誰も来ていない(多分、対向車も来ないであろう)ことを信じて慎重に進みます。なんとか無事に大師山霊場下の小さな駐車場に到着しました。誰もいる気配はありません。車を降りるとポツポツと小雨が降ってきましたが、すぐに止(や)んだので、本降りになるのは避けられそうな感じです。駐車場から坂道を少し上がると「四国八十八ヶ所霊場巡り」の入口です。石段を上がった左右に見覚えのある石燈籠が建っていました。
daisiyama02
大師山・永世燈。作者の刻銘はありませんが、この字体の深い彫りや、笠や火袋などの重い上部を、竿の細い首で絶妙に支えている造形は ”丹波の佐吉” 作に間違いありません。以前  ”丹波の佐吉” 第2回で取り上げました 宇陀水分(うだ・みくまり)神社・拝殿前の石燈籠「永世燈」 と全く同じ造形・書体です。制作年の安政2年(1855)の刻銘はありました。
大師山四国八十八ヶ所霊場の石仏制作に携わった佐吉と弟子の職人たちは、平井地区での一番の土地持ちだった美登路家で、3年余りの間、寝食の世話を受けながら仕事をしました。大師山すべての石造物は佐吉と弟子10数人たちが制作したものですが、制作者名は佐吉の一部の作品を除いて刻銘されていません。
daisiyama03
大師山・山中での石仏配置図です。図の最上部中央にある岩谷山・総供養塔の場所が山頂(標高464m)にあたります。
daisiyama04b
大師山入口にある四国八十八ヶ所石仏群入口にある佐吉作の 地蔵立像 です。佐吉の刻銘があるそうですが分かりませんでした。以下、今回、写真で取り上げた石造物は、佐吉に関する文献や研究者たちにより、佐吉の制作物であることにほぼ間違いなしと云われているものだけに絞って取り上げました。
daisiyama05
四国八十八ヶ所・第1番・霊山寺の(左)大師像と(右)釈迦如来像。大師像は山中にも、これと同じものが15体ありますが同じ造形で、すべて佐吉の制作と云われていますので、写真はこれ1体のみにしました。
daisiyama06
(左)第3番・金泉寺・釈迦如来像と、(右)第18番・恩山寺・薬師如来像。
daisiyama07
第19番・立江寺・延命地蔵菩薩像が納まる石祠 と、石祠背面にある 佐吉の刻銘:大本佐吉照信花押 と彫られています。石祠の中の延命地蔵も名品と云われていますが、隙間が小さいため、残念ながら私のカメラでは写せませんでした。この石造りの祠の小さな窓の透かし彫りを見るだけでも、佐吉の技量の素晴らしさが伝わってきました。
daisiyama08
第32番・禅師峰寺(ぜんしぶじ)の、(左)十一面観音像。台座に「三ツ茶屋・中谷ひな」と寄進者の名前が彫られています。(右)寄進者のヒナ女像。像には「浄誉妙徳信女」と銘がありますが、俗にヒナ女像と呼ばれており、これにも「照信作花押」と佐吉の刻銘があります。 
daisiyama09
大師山頂上(標高464m)に到着。この最高地点に佐吉の総供養塔があります。
daisiyama10
第45番・岩屋寺・総供養塔。手前の岩谷山・石標も佐吉作と思われます。佐吉は、最初の第1番や、第19番・石祠、第45番・総供養塔などには、自分の名前をキッチリと彫り込んでいて、余程の自信作であったものと思われます。不動明王には 「嘉永五壬子(1852)九月吉日、照信作花押」の刻銘があるのですが、これもよく確認出来ませんでした。
daisiyama11
第45番・岩屋寺・総供養塔内の不動明王像。不動明王は高さ40cmほどです。”背に負った火炎は手のこんだ透かし彫りで、羂索(けんさく)を持つ左手も親指から小指にかけて貫通させてある。・・・・こうしたあやうさのぎりぎりまで近づいて彫る技術であったのだろう” (金森敦子著『 旅の石工 丹波佐吉の生涯 』より)
daisiyama12
第88番・大窪寺・番外・五重塔。屋根の四隅の反り、四本の柱等の彫り方、バランスが、第45番の総供養塔と同じ手法であり、佐吉作と云われています。全88ヶ所を巡り歩きましたが、曇天での薄暗い山中の石仏巡りは写真を撮るのも上手くいきませんでした。いつか再び、佐吉の作品だけでもキレイな写真に取り直しに訪れたい、と思いつつ下山しました。

”石仏八十八体、石造五重塔一基、太師像十余体、永世燈三基、番外の石仏数体は、三年余にわたる仕事であった。太師山で仕事を共にした職人たちは、賃金と佐吉から学んだ石彫の技術をもって、それぞれの国に戻っていったのである”(金森敦子著『 旅の石工 丹波佐吉の生涯 』より)。