元明・元正の親子(母娘)天皇の陵墓を訪ねたあとは、奈良坂方面へと向いました。
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奈良豆比古(ならずひこ)神社。神社の境内に建つ「元明天皇陵墓碑御旧趾」の石碑です。元明天皇は自分の陵に「刻字之碑」を建てるよう遺言したことが記録に残っています。奈良豆比古神社の境内に「佐保姫影向石」としてずっと大切にされていた石がありました。江戸時代に書かれた碑文が解読されたところ、「元明天皇奈保山御陵」を示すものだったそうで、石は元明天皇陵に戻された後、跡地に記念としてこの石碑が建てられたそうです。
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般若寺(はんにゃじ)楼門(国宝)。創建は定かではありませんが、寺伝によれば舒明天皇元年(629)高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされ、天平7年(735)聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔(重文:楼門の奥に見える)を建てて天皇自筆の大般若経を安置したと云われています。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和と山城を結ぶ古代から重要な道でした。治承4年(1180)平重衡は京より軍勢を率いて、この奈良坂から南都に進攻しますが、民家に放った火が折からの強風にあおられ、般若寺・東大寺・興福寺などを焼き尽くす大火事となってしまいました(南都焼討)。のちに平重衡が木津川の河原で斬首され、首が南都の衆徒に手渡されると、この般若寺の門前で さらし首にされました。
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北山十八間戸。鎌倉時代の寛元元年(1243)西大寺の僧・忍性によってつくられた、当時のハンセン病患者を保護・救済した施設です。全長約38m、幅約4m、内部は18室に区切られた棟割長屋です。忍性は、毎日患者を引き連れて東大寺に行き、参詣者に食物や金銭を乞うたそうです。これは仏教の修行における乞食(こつじき)で、決して卑しい行為ではなかったのです。
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五劫院(ごこういん)。華厳宗・東大寺の末寺で、重源(ちょうげん)が創建。南都焼討で焼失した大仏と大仏殿を復興した僧・重源、および戦国時代に再び戦火で焼失した大仏を江戸時代に再建した僧・公慶(こうけい)は、いずれもこの五劫院に葬られています。
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五劫院墓地入口にある二体の地蔵石仏。左の地蔵は、見返り地蔵 と呼ばれ、これは極楽に向う途中、引接する衆生が遅れていないか、きちんと付いて来ているか、と確認のために振り返っている姿とされています。
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空海寺。華厳宗・東大寺の末寺で、空海の創建です。東大寺には八宗兼学の伝統があり、空海寺も華厳宗と真言宗の二派を受け継いでいます。空海は、東大寺・戒壇院で受戒して唐に渡り、帰朝後、朝廷から東大寺の別当に任じられます。空海は、ここに草庵を建て阿那地蔵尊を石に刻んで石窟に安置したのが寺の始まりとされています。本尊は「穴地蔵」と呼ばれ、秘仏で一般公開はされていません(50年に1度だけ開帳)。
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東大寺・転害門(国宝)。今更説明不要でしょうが、天平時代の代表的な建造物で、古代建築の価値が高い門です。門に架かる注連縄は、4年に1度取り替えられます。注連縄はモチ米だけの稲藁で作られ、龍の姿を現しており、左側が頭、右側が尻尾となっています。
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大仏殿(写真後方)の北西に建てられている、光明皇后の歌碑です。藤原不比等の娘・藤原光明子は聖武天皇に嫁ぎ、皇后となります。仏教に篤く帰依し、貧しい人に施しをする施設や病人を治療する施設などを設置しました。
”わが背子と 二人見ませば 幾許(いくばく)か この降る雪の うれしかなまし” 光明皇后 (万葉集 巻八)
現代語訳:私の愛しい人と二人で見られたなら、降っているこの雪がどれほど嬉しいものだったでしょうか。天皇は行幸中でしたので平城宮には不在で、一人淋しく初雪を眺めた歌です。わが背子とは、女性が夫や恋人を呼ぶ言葉で、聖武天皇を「わが背子」と詠んだ光明皇后の限りない優しさが現れています。聖武天皇が亡くなったあとは、夫の遺品を東大寺に寄進し、その宝物を収めるために正倉院が建てられました。
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東大寺・戒壇院。6世紀半ばに日本に渡来した仏教ですが、奈良時代になると、鎮護国家の思想のもと、諸国に国分寺が置かれ、各寺に官僧が配されました。しかし、この官僧たちは、いわば国家公務員として僧位を得たもので、仏教徒であることを自誓したにすぎない僧でした。つまり、仏教徒としての正式な受戒をせず、また特別な修練も積んでいない、自学自習の僧たちだったのです。そのため朝廷は、正式な受戒が出来る中国の高僧の招請を望み、幾多の困難の末、天平勝宝5年(754)鑑真(がんじん)とその高弟たちが日本に来ました。翌年に鑑真たちは平城京に到着し、東大寺のこの地で、聖武上皇、光明皇太后、娘の孝謙天皇に日本での初めての受戒を行いました。孝謙天皇の勅により、鑑真は戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなります。鑑真は東大寺で5年間を過ごしたあと、新たに建立された唐招提寺に移ります。ここで最後の5年間を過ごし、天平宝字7年(763)唐招提寺で死去。享年76歳でした。
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東大寺・大仏殿・中門。修復中だった中門(重文)と回廊の工事も終わりました。ちなみに、毎年1月1日の午前0時~午前8時までに限って、この中門を通って大仏殿に行くことが出来ます。この時だけは拝観も無料です。
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東大寺・勧学院。弘仁13年(822)創建で、開基は空海です。東大寺の境内にありますが、正式には高野山真言宗・真言院と云います。写真に見える建物だけは、真言院とは別扱いで東大寺の管理=潅頂道場(勧学院)となっています。
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東大寺・西塔跡。東大寺には創建時、東西に高さ約100mの七重塔が建っていましたが、西塔は承平4年(934)10月19日落雷で炎上し、東塔も治承4年(1180)12月28日南都焼討で炎上し、その後は再建されていませんが、今新たに東塔の再建プロジェクトが立ち上がっています。勿論私たちが再建された暁の七重塔を目にすることはないでしょうが‥。ここを最後に奈良県庁前で解散となりました。本日の歩程は 13.6km でした。