奈良県と大阪府との境界に位置する金剛山系の北端に聳える、双耳峰の低い山が 二上山(にじょうさん)です。かつては「ふたかみやま」とも呼ばれました。以前にも書きましたが、太古の奈良盆地は、四方を山に囲まれた広大な湖でした。盆地に溜まった水が出て行くところがなかったのです。それが約2000万年前に、当時活火山であった二上山の大爆発で、二上山の北側地区の山塊が破壊されて、奈良盆地の大量の水が大阪方面(大阪湾)に流れ出したのです。これが今の大和川です。約1400万年前には火山活動も静止し、奈良盆地には地表が現れ始めて、多くの動植物が生息できる環境へと変わって行きました。
★木津川 山の会3月例会「二上山」 3/11当日は近鉄・南大阪線・二上山駅に34名が集合。午前9時10分スタートです。
★木津川 山の会3月例会「二上山」 3/11当日は近鉄・南大阪線・二上山駅に34名が集合。午前9時10分スタートです。
二上山・上ノ池登山口 です。当初の例会案内には「屯鶴峯(どんづるぼう)~二上山」とありましたので、てっきり屯鶴峯から二上山へ登山するものと思っていました。ずいぶん昔に、屯鶴峯から二上山に登ったのですが、アップダウンが多くて、延々と続く登り坂には閉口しました。それ以降は、二上山に登るときは、このコースから登るのだけは避けていましたので、今回も屯鶴峯から登るコースならパスするつもりでした。ところが、直前の案内には「二上山~屯鶴峯」と逆に記されており、詳細行程にも、二上山登頂のあと屯鶴峯へ下山するコースとなっていました。それなら登りで苦労することもないと思い、急遽参加することにしました。
山頂へ向って、谷川沿いを歩き‥
毎度おなじみの 鉄の階段 を登り‥
歩き始めて約1時間半で、大津皇子(おおつのみこ)・二上山墓 に到着です。大津皇子は、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)の第3皇子で、幼い頃より文武に優れ、容姿端麗で誰からも愛された人柄でした。しかし、天武天皇には10人の皇子と7人の皇女がいて、皇位継承が問題となっていました。その最有力候補が、皇后・鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ=天智天皇の娘で後の持統天皇)を母とする草壁皇子(くさかべのみこ)と、大田皇女(おおたのひめみこ)を母とする大津皇子の二人でした。順位的には皇太子となった草壁が有利でしたが、器量や才能をとってみると大津の方がはるかに優れていて人望も厚かったのです。二人の争いが予断を許さぬ状態のまま、 天武天皇は崩御し、翌月に川島皇子(天智天皇の第2皇子)の密告によって、大津皇子は謀反の疑いをかけられて捕えられ、翌日には「死を賜る。ときに年二十四」つまり自害を強要されたのでした。大津皇子の妃だった山辺皇女(やまべのひめみこ=天智天皇の娘)は「髪をみだし、裸足にて奔(はし)りゆきて殉ず(殉死する)。見るもの皆、嘆き悲しんだ」と日本書紀に記されています。この事件は、鵜野讃良皇女が自分の実子の草壁を次の天皇にするために図ったことだとも言われていますが異説もあります。大津皇子の遺体は、この二上山に葬られました。
大津皇子の墓からすぐ西の所にある 葛木二上神社(右)と、更にその近くにある 二上山・雄岳(標高512m)の頂上 です。雄岳山頂は樹林に囲まれて展望は叶いません。また山頂一帯は葛木二上神社の境内となっていて、入山料(美化保存協力金)を徴収されることがありますが、この日は係員さんも居られず、スルーしました。
雄岳から、いったん 二上山の鞍部(馬の背)にまで下りて、雌岳に登り返します。
馬の背から雌岳頂上へは2つの道があります。私は、上りはサザンカの花が咲き乱れる散策路(左)を歩き、下りは直登道(右)をとりました。正面に見える山は雄岳です。
11時05分、二上山・雌岳頂上 に到着です。雄岳とは違って、頂上広場には日時計のモニュメントもあり、3等三角点(点名:女岳<メダケ>、標高:474.12m)が設置されています。ここで早めの昼食タイムとなりました。
雌岳頂上から東方向(奈良側)を眺望。藤原京跡を見下ろします。大津皇子の姉・大伯皇女(おおくのひめみこ。大来皇女とも記す)は当時、伊勢神宮の斎宮となっていましたが、弟が罪を犯したと云うことで任を解かれて大和の国に戻ってきました。次の歌は、大伯皇女が、飛鳥京あるいは藤原京から弟の大津皇子が眠る二上山を眺めて詠んだ歌です。
”うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山(ふたがみやま)を 弟背(いろせ)とあが見む” 大伯皇女
歌の大意は「生きてこの世に残っている私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めましょう」ですが、「生きてこの世に残っている私です」と生きていることが辛い。いっそ、弟と一緒に、この世ならぬところに行ってしまった方がよかった、と云う気持ちが裏に滲み出ています。
馬の背から西方向(大阪側)を眺望。春霞の中に PLの塔 が見えていました。
ダイヤモンド・トレール(通称:ダイトレ)への分岐点です。ここから屯鶴峯へと下山します。
最初にも書きましたが、このコースは長々と続く坂道で、木の階段や急坂が多くて、好きではありません。
下山途中の高圧線鉄塔下から振り返って見た 二上山(左が雄岳、右が雌岳)です。
13時10分、奈良県道・大阪府道703号・香芝太子線に面した、ダイトレ・北登山口 に下りて来ました。
703号線を東へ20分ほど歩くと、屯鶴峯 への入口です。ダイヤモンド・トレールは、奈良県香芝市の屯鶴峯から大阪府和泉市の槇尾山まで、金剛葛城山系の稜線を縦走する、全長約45kmの長距離自然歩道です。屯鶴峰はダイトレ・北の起点 に当たり、最初の石標が設置されています。ここに来て突然、足が攣ってしまいました。今日のこのコースは下りだからと楽観していましたが、やはり長い階段下りが応えたようです。薬で応急対応しました。
足の痙攣は5分程で治りましたが、屯鶴峰には過去にも来ていますので、無理をせずに入口付近の所だけ見物です。真っ白な「白色凝灰岩」の層が見られる奇勝として知られています。屯鶴峯は、二上山の火山活動により火山岩屑が沈積し、その後の隆起によって凝灰岩が露出し、1500万年もの間の風化・浸食を経て、奇岩群となった標高約150mの岩山です。県天然記念物で、金剛生駒紀泉国定公園の見所の1つでもあります。多くの火成岩が分布していますが、なかでもサヌカイト、凝灰岩、ザクロ石(金剛砂)はその後の人類文化の発展に大きく寄与した岩石・鉱物で、奈良県や大阪府の古墳や石器類には、二上山から産出した石が使われていることが多いです。
屯鶴峰から更に小1時間ほど歩いて、14時50分過ぎ、ゴールの近鉄・大阪線・二上駅に到着し、解散となりました。本日の歩程は 11.4km でした。
山頂へ向って、谷川沿いを歩き‥
毎度おなじみの 鉄の階段 を登り‥
歩き始めて約1時間半で、大津皇子(おおつのみこ)・二上山墓 に到着です。大津皇子は、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)の第3皇子で、幼い頃より文武に優れ、容姿端麗で誰からも愛された人柄でした。しかし、天武天皇には10人の皇子と7人の皇女がいて、皇位継承が問題となっていました。その最有力候補が、皇后・鵜野讃良皇女(うののささらのひめみこ=天智天皇の娘で後の持統天皇)を母とする草壁皇子(くさかべのみこ)と、大田皇女(おおたのひめみこ)を母とする大津皇子の二人でした。順位的には皇太子となった草壁が有利でしたが、器量や才能をとってみると大津の方がはるかに優れていて人望も厚かったのです。二人の争いが予断を許さぬ状態のまま、 天武天皇は崩御し、翌月に川島皇子(天智天皇の第2皇子)の密告によって、大津皇子は謀反の疑いをかけられて捕えられ、翌日には「死を賜る。ときに年二十四」つまり自害を強要されたのでした。大津皇子の妃だった山辺皇女(やまべのひめみこ=天智天皇の娘)は「髪をみだし、裸足にて奔(はし)りゆきて殉ず(殉死する)。見るもの皆、嘆き悲しんだ」と日本書紀に記されています。この事件は、鵜野讃良皇女が自分の実子の草壁を次の天皇にするために図ったことだとも言われていますが異説もあります。大津皇子の遺体は、この二上山に葬られました。
大津皇子の墓からすぐ西の所にある 葛木二上神社(右)と、更にその近くにある 二上山・雄岳(標高512m)の頂上 です。雄岳山頂は樹林に囲まれて展望は叶いません。また山頂一帯は葛木二上神社の境内となっていて、入山料(美化保存協力金)を徴収されることがありますが、この日は係員さんも居られず、スルーしました。
雄岳から、いったん 二上山の鞍部(馬の背)にまで下りて、雌岳に登り返します。
馬の背から雌岳頂上へは2つの道があります。私は、上りはサザンカの花が咲き乱れる散策路(左)を歩き、下りは直登道(右)をとりました。正面に見える山は雄岳です。
11時05分、二上山・雌岳頂上 に到着です。雄岳とは違って、頂上広場には日時計のモニュメントもあり、3等三角点(点名:女岳<メダケ>、標高:474.12m)が設置されています。ここで早めの昼食タイムとなりました。
雌岳頂上から東方向(奈良側)を眺望。藤原京跡を見下ろします。大津皇子の姉・大伯皇女(おおくのひめみこ。大来皇女とも記す)は当時、伊勢神宮の斎宮となっていましたが、弟が罪を犯したと云うことで任を解かれて大和の国に戻ってきました。次の歌は、大伯皇女が、飛鳥京あるいは藤原京から弟の大津皇子が眠る二上山を眺めて詠んだ歌です。
”うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山(ふたがみやま)を 弟背(いろせ)とあが見む” 大伯皇女
歌の大意は「生きてこの世に残っている私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めましょう」ですが、「生きてこの世に残っている私です」と生きていることが辛い。いっそ、弟と一緒に、この世ならぬところに行ってしまった方がよかった、と云う気持ちが裏に滲み出ています。
馬の背から西方向(大阪側)を眺望。春霞の中に PLの塔 が見えていました。
ダイヤモンド・トレール(通称:ダイトレ)への分岐点です。ここから屯鶴峯へと下山します。
最初にも書きましたが、このコースは長々と続く坂道で、木の階段や急坂が多くて、好きではありません。
下山途中の高圧線鉄塔下から振り返って見た 二上山(左が雄岳、右が雌岳)です。
13時10分、奈良県道・大阪府道703号・香芝太子線に面した、ダイトレ・北登山口 に下りて来ました。
703号線を東へ20分ほど歩くと、屯鶴峯 への入口です。ダイヤモンド・トレールは、奈良県香芝市の屯鶴峯から大阪府和泉市の槇尾山まで、金剛葛城山系の稜線を縦走する、全長約45kmの長距離自然歩道です。屯鶴峰はダイトレ・北の起点 に当たり、最初の石標が設置されています。ここに来て突然、足が攣ってしまいました。今日のこのコースは下りだからと楽観していましたが、やはり長い階段下りが応えたようです。薬で応急対応しました。
足の痙攣は5分程で治りましたが、屯鶴峰には過去にも来ていますので、無理をせずに入口付近の所だけ見物です。真っ白な「白色凝灰岩」の層が見られる奇勝として知られています。屯鶴峯は、二上山の火山活動により火山岩屑が沈積し、その後の隆起によって凝灰岩が露出し、1500万年もの間の風化・浸食を経て、奇岩群となった標高約150mの岩山です。県天然記念物で、金剛生駒紀泉国定公園の見所の1つでもあります。多くの火成岩が分布していますが、なかでもサヌカイト、凝灰岩、ザクロ石(金剛砂)はその後の人類文化の発展に大きく寄与した岩石・鉱物で、奈良県や大阪府の古墳や石器類には、二上山から産出した石が使われていることが多いです。
屯鶴峰から更に小1時間ほど歩いて、14時50分過ぎ、ゴールの近鉄・大阪線・二上駅に到着し、解散となりました。本日の歩程は 11.4km でした。
コメント
コメント一覧 (6)
参加するのは女性が多いようで、多くのおばちゃんたちだと賑やかでしょうね。
苦難を冷静に乗り越えられたのは流石ですね。
この付近は火成岩が多いのですね、火山とは無縁の近畿地方もその昔は溶岩が煮えたぎっていたのでしょうか?
コメント有難うございます。
就寝中にコムラ返りになったことは幾度かあるのですが、山歩きで足が攣ったのは初めての経験でした。弱音を吐くわけでもないのですが、足を骨折した頃から、急激に体力が落ちており、もう若い頃とは身体が違うと云うことをしっかり自覚しないといけないと思っています。山の会の例会参加者は、いつも女性が2/3以上で、男性は1/3程度です。
コメント有難うございます。
山の会の例会参加者は、いつも女性が2/3以上で、男性は1/3程度です。女性の方が圧倒的に「粘り強い」というか「忍耐力がある」ようですね 。私も体力が大幅に低下していて、きつそうな山には参加していないのですが、二上山くらいなら大丈夫と思ってましたが、この程度でも身体がついていかないという現実を味わいました。石の知識は殆どありませんが、花崗岩や凝灰岩などは火山性の石なので、これらの石が多い所は大昔は火山の影響を受けていたのでしょうね。
コメント有難うございます。
仰るように、下りの方が辛いですね。「筋肉痛は‥下りの方があまり使っていない筋肉を動かすため」でしたか。多摩様はマラソン・ランナーなので、運動の基本や筋力アップ方法などもよく御存知なんですね。勉強になりましたが、この齢では筋力アップはもう難しいのかも‥です。