★なら観光ボランティアガイドの会「古地図を片手に 古(いにしえ)の奈良の都を巡る」1/27
寒さで出不精になっています。各種ウォーク情報やイベント情報をチェックしても、仲々行ってみたいと思える企画もありません。このままでは足の筋力は衰える、ブログネタもなくなると云うことで、普段から歩きなれている東大寺や興福寺の旧跡を巡るウォークに参加しました。
当日は午後1時に、奈良県庁前に集合。予約制100名限定の企画で、いつもの通り、先着順に10名づつが1班となってスタートしていきます。早くから来ていた人たちが多くて、私は8班でスタートしました。
寒さで出不精になっています。各種ウォーク情報やイベント情報をチェックしても、仲々行ってみたいと思える企画もありません。このままでは足の筋力は衰える、ブログネタもなくなると云うことで、普段から歩きなれている東大寺や興福寺の旧跡を巡るウォークに参加しました。
当日は午後1時に、奈良県庁前に集合。予約制100名限定の企画で、いつもの通り、先着順に10名づつが1班となってスタートしていきます。早くから来ていた人たちが多くて、私は8班でスタートしました。
当日、参加者全員に配布された古地図のコピー、和州奈良之図 です。本図は天保15年(1844)に、絵図屋庄八が発行していた奈良案内図です(クリックで拡大します)。
最初は、奈良県庁・屋上広場 に上がって奈良盆地を見渡しました。高い建築物が規制されている奈良市では、ここから360度のパノラマ風景が楽しめます。写真は東方面で、若草山や東大寺の南大門などが見えています。ちなみに、奈良県庁の食堂や屋上広場は一般人に開放されていますので、私も時々、食堂でお昼を食べたり、お茶を飲んだり、屋上からの展望を楽しんでいます。
奈良県庁から少しばかり北へ行きますと、奈良県文化会館(左)の北端は城壁のように石垣が組まれています。ここが昔の 興福寺境内の北限 だったところで、奈良時代には、ここから北側には平城宮と東大寺・西大門を結んでいた 二条大路 が東西に走っていて、その道幅は実に 36m もあったそうです。今は見る影もなく建物が密集し道路は狭いです。右端に少し見える白い建物はNHK奈良放送局です。
旧・二条大路沿いに東へ進み、南北に走る国道369号線を渡ると、東大寺・西大門跡 です。現存する東大寺・南大門を上回る規模だった西大門でしたが、天正11年(1583)の暴風で倒壊したあとは再建されることもなく今に至っています。木造建築物では、大きな門などは台風で倒壊することが多いですが、何故か高い五重塔などは台風で倒れたことがないそうです。
依水園(いすいえん、正面)と吉城園(よしきえん、右)です。共に興福寺古絵図によれば、興福寺子院の魔尼珠院(まにしゅいん)のあったところで、明治に民間所有となり、現在の建物や庭園が作られました。若草山・春日山・三笠山を遠景に、東大寺南大門を借景にした奈良随一の庭園です。
依水園と吉城園との境界を流れる細い川(吉城川)にかかる 上水門橋 です。この川が東大寺南面の築地南西から寺に流入するので、13世紀末頃に水門(上水門橋・水門橋・下水門橋)が構えられました。この川で奈良晒(さらし)が完成しました。
*奈良晒:奈良地方で生産されてきた高級麻織物。江戸時代に各地の名産・名所を描いた「日本山海名物図会(1754年刊行)」では「麻の最上は南都なり。近国よりその品数々出れども、染めて色よく、着て身にまとわず、汗をはじく故に世に奈良晒とて重宝するなり」と評されています。
東大寺・西塔跡の基壇。西塔は高さ70mの七重の大塔で、大仏開眼後の764年頃に東塔と同時に造られましたが、934年に落雷で消失、その後再建作業中の1000年に、再度落雷で消失、以後再建されずにいます。日本の木造建築物のうち、五重塔や七重塔のような高層建築物は、台風や暴風雨で倒壊したことは滅多になく、殆どが落雷で焼失しています。避雷針があったら、凄い国宝建築物が沢山残っていたと思うと残念なことです。
冒頭の古地図「和州奈良之図」の左下に発行元:奈良大仏前 絵図屋庄八 と記されています。東大寺境内には幾つかの民間人が昔から住んでいます。上記写真は 大仏殿の西面 ですが、白い壁の民家が見えますね。これが絵図屋だそうで、確かに「奈良大仏前」に位置していました。
最初は、奈良県庁・屋上広場 に上がって奈良盆地を見渡しました。高い建築物が規制されている奈良市では、ここから360度のパノラマ風景が楽しめます。写真は東方面で、若草山や東大寺の南大門などが見えています。ちなみに、奈良県庁の食堂や屋上広場は一般人に開放されていますので、私も時々、食堂でお昼を食べたり、お茶を飲んだり、屋上からの展望を楽しんでいます。
奈良県庁から少しばかり北へ行きますと、奈良県文化会館(左)の北端は城壁のように石垣が組まれています。ここが昔の 興福寺境内の北限 だったところで、奈良時代には、ここから北側には平城宮と東大寺・西大門を結んでいた 二条大路 が東西に走っていて、その道幅は実に 36m もあったそうです。今は見る影もなく建物が密集し道路は狭いです。右端に少し見える白い建物はNHK奈良放送局です。
旧・二条大路沿いに東へ進み、南北に走る国道369号線を渡ると、東大寺・西大門跡 です。現存する東大寺・南大門を上回る規模だった西大門でしたが、天正11年(1583)の暴風で倒壊したあとは再建されることもなく今に至っています。木造建築物では、大きな門などは台風で倒壊することが多いですが、何故か高い五重塔などは台風で倒れたことがないそうです。
依水園(いすいえん、正面)と吉城園(よしきえん、右)です。共に興福寺古絵図によれば、興福寺子院の魔尼珠院(まにしゅいん)のあったところで、明治に民間所有となり、現在の建物や庭園が作られました。若草山・春日山・三笠山を遠景に、東大寺南大門を借景にした奈良随一の庭園です。
依水園と吉城園との境界を流れる細い川(吉城川)にかかる 上水門橋 です。この川が東大寺南面の築地南西から寺に流入するので、13世紀末頃に水門(上水門橋・水門橋・下水門橋)が構えられました。この川で奈良晒(さらし)が完成しました。
*奈良晒:奈良地方で生産されてきた高級麻織物。江戸時代に各地の名産・名所を描いた「日本山海名物図会(1754年刊行)」では「麻の最上は南都なり。近国よりその品数々出れども、染めて色よく、着て身にまとわず、汗をはじく故に世に奈良晒とて重宝するなり」と評されています。
東大寺・西塔跡の基壇。西塔は高さ70mの七重の大塔で、大仏開眼後の764年頃に東塔と同時に造られましたが、934年に落雷で消失、その後再建作業中の1000年に、再度落雷で消失、以後再建されずにいます。日本の木造建築物のうち、五重塔や七重塔のような高層建築物は、台風や暴風雨で倒壊したことは滅多になく、殆どが落雷で焼失しています。避雷針があったら、凄い国宝建築物が沢山残っていたと思うと残念なことです。
冒頭の古地図「和州奈良之図」の左下に発行元:奈良大仏前 絵図屋庄八 と記されています。東大寺境内には幾つかの民間人が昔から住んでいます。上記写真は 大仏殿の西面 ですが、白い壁の民家が見えますね。これが絵図屋だそうで、確かに「奈良大仏前」に位置していました。
大仏殿北側の広場に残る 東大寺・講堂跡の礎石群 です。講堂は756年頃に建てられましたが、917年に消失、再建されたが1180年の兵火(南都焼き討ち)で再び消失、再々建されるも室町時代の焼失後は再建されることはありませんでした。
東大寺境内の北部、大仏殿の裏手を通り、二月堂への裏参道から少しだけ北にそれた位置に、観光スポットではない東大寺の塔頭寺院群があり、その道の真ん中に、丁寧に囲われた 食堂跡の礎石 が残っています。何の標識も説明板もありませんが、この礎石は建造当初、天平(奈良)時代のものがそのまま残されており、現在以上に大規模であった東大寺の過去を感じさせる貴重な存在となっています。
東大寺・大湯屋(重文)を見ながら‥
東大寺・東塔跡 に到着。東塔も西塔同様に764年頃に建てられましたが、1180年の南都焼き討ちで焼失、1227年に再建されるも、1336年の雷火で再び焼失し、その後は再建されていません。近年、東塔の再建が検討され始めていますが、まだ調査段階で、工事や完成の予定は未定です。
春日野園地の芝生を横切ります。昨夜(1/26)に 山焼き行事が行われたばかりの若草山 が、焼け焦げた黒い山肌を見せていました。
奈良公園南端部に位置する荒池と呼ばれる溜池の周囲に美しい芝生広場が広がる「荒池園地」に入ります。ここに、かつての 興福寺・塔頭(子院)の痕跡 と推定される風化した 土塀 があります。案内板も特になく、観光客が土塀を見学することもないスポットで、土塀は柵や保護するための設備も全く設けられておらず、完全に野ざらし状態となっています。豊臣時代の1589年に、大和大納言・豊臣秀長が灌漑用の溜池として荒池を築造し、その時に塔頭等が水没しました。
こちらは 興福寺の大湯屋(重文)です。創建は奈良時代のようで、その後数回の被災・再建を繰り返し、現在の建物は 応永33年(1426)頃の築造です。
興福寺・中金堂。実に7度の被災・再建を繰り返し、昨年10月に300年ぶりに再建されました。ここで解散となりましたが、私は近鉄・奈良駅でゴールとしました。
奈良県庁から近鉄・奈良駅まで、本日の歩程は 6.0km でした。
東大寺境内の北部、大仏殿の裏手を通り、二月堂への裏参道から少しだけ北にそれた位置に、観光スポットではない東大寺の塔頭寺院群があり、その道の真ん中に、丁寧に囲われた 食堂跡の礎石 が残っています。何の標識も説明板もありませんが、この礎石は建造当初、天平(奈良)時代のものがそのまま残されており、現在以上に大規模であった東大寺の過去を感じさせる貴重な存在となっています。
東大寺・大湯屋(重文)を見ながら‥
東大寺・東塔跡 に到着。東塔も西塔同様に764年頃に建てられましたが、1180年の南都焼き討ちで焼失、1227年に再建されるも、1336年の雷火で再び焼失し、その後は再建されていません。近年、東塔の再建が検討され始めていますが、まだ調査段階で、工事や完成の予定は未定です。
春日野園地の芝生を横切ります。昨夜(1/26)に 山焼き行事が行われたばかりの若草山 が、焼け焦げた黒い山肌を見せていました。
奈良公園南端部に位置する荒池と呼ばれる溜池の周囲に美しい芝生広場が広がる「荒池園地」に入ります。ここに、かつての 興福寺・塔頭(子院)の痕跡 と推定される風化した 土塀 があります。案内板も特になく、観光客が土塀を見学することもないスポットで、土塀は柵や保護するための設備も全く設けられておらず、完全に野ざらし状態となっています。豊臣時代の1589年に、大和大納言・豊臣秀長が灌漑用の溜池として荒池を築造し、その時に塔頭等が水没しました。
こちらは 興福寺の大湯屋(重文)です。創建は奈良時代のようで、その後数回の被災・再建を繰り返し、現在の建物は 応永33年(1426)頃の築造です。
興福寺・中金堂。実に7度の被災・再建を繰り返し、昨年10月に300年ぶりに再建されました。ここで解散となりましたが、私は近鉄・奈良駅でゴールとしました。
奈良県庁から近鉄・奈良駅まで、本日の歩程は 6.0km でした。
コメント
コメント一覧 (8)
多数の建物が焼失したのは残念ですね。
私も福岡にいた時どうでも良い用件を昼頃に作り、食堂を利用していました。
その後は屋上の展望台で時間つぶしもしていました。仕事中だったんですけど。
この地にもあるのかもしれませんが、情報過疎の状態・・でも情報を手に入れてもこの体では参加に二の足を踏むでしょうけどね。
コメント有難うございます。
仰る通りです。これだけ高度な建築技術があったのに、雷などの知識がなくて、対策が取れなかったことは残念ですね。
別に仕事をさぼる訳ではなく、役所などに立寄って昼食や休憩をとるのは営業の人間なら誰でもしています。私もやってました。
コメント有難うございます。
JRハイキングや近鉄ハイキングなどのパンフレット類、各私鉄やウォーク会のホームページでの情報等々でチェックしています。関西一円のウォーク・イベント情報を日程順にまとめたサイトもあります。鉄道会社以外の各種ウォーク会などが主催するイベントは、ただ連れて歩くだけの会費稼ぎのような企画も多々ありますので、どこの主催のイベントなら自分に合っているのか見極めるのが大事ですね。
コメント有難うございます。
仰るように、奈良は古いところが多いので、ポイントを掴みやすいです。私は古地図を見るのが昔から大好きでした。江戸時代以前のものは方角や距離などもアバウトなので、いろいろ推測しながら見ないとダメですが、これはこれで楽しいです。明治以降の地図は、測量法に基づいて画かれていますので、新旧地図を重ね合わせると「ここは昔は○○だった」とかが分かりますので、新たな気付きもあり楽しいですね。
当時、高層建築はシンボルだったようで、出雲大社もかなりの高層建築と聞いたことがあります。
是非、奈良で避雷針を付けて、再現するとまちがいなく人気の観光名所となるでしょう。
コメント有難うございます。
興福寺は歴史的にも被災にあった頻度が著しかったところへ、明治の廃仏稀釈で、とことん廃れてしまいました。五重塔なんか、一時は二束三文で売られそうになったそうです。平城宮の復原が全額、国の費用で行われているのと比べ、中金堂の再建には国の援助は殆どありませんでした。それだけに中金堂の再建は興福寺にとっては悲願だったと思います。今後の大きな建造物には、耐震や防火(避雷針など)設備は必須ですね。