節分 とは、文字通り「季節 を分 ける」ことを意味する雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日を指します。江戸時代以降は節分と云えば、立春(毎年2月4日頃)の前日を指すことが多くなりました。旧暦では、立春が一年の始まりですから、春の節分は旧暦の大晦日に当たります。中国では、年の変わり目や季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われてきました。中国から伝わった悪霊ばらいの「追儺会(ついなえ=鬼追い式)」行事は平安時代に日本に定着し、現在の節分のもととなっています。さて、今年の節分は又々、手向山八幡宮と東大寺・二月堂に行ってみました。
手向山(たむけやま)八幡宮・二之鳥居。手向け山八幡宮は、東大寺・大仏殿の東側、および東大寺・法華堂(三月堂)の南側に位置する神社で、この二之鳥居は、東大寺・法華堂(三月堂)や二月堂方面への出入口となっています。天平勝宝元年(749)、東大寺と大仏を建立するにあたって、九州の宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されました。創建以来、東大寺に属し、その「鎮守社」とされてきましたが、明治の神仏分離令により東大寺から独立しました。
手向山(たむけやま)八幡宮・二之鳥居。手向け山八幡宮は、東大寺・大仏殿の東側、および東大寺・法華堂(三月堂)の南側に位置する神社で、この二之鳥居は、東大寺・法華堂(三月堂)や二月堂方面への出入口となっています。天平勝宝元年(749)、東大寺と大仏を建立するにあたって、九州の宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されました。創建以来、東大寺に属し、その「鎮守社」とされてきましたが、明治の神仏分離令により東大寺から独立しました。
手向山八幡宮では、毎年2月の節分の日には、謡物能楽の形式で執り行われる古式ゆかしい農耕儀礼「御田植祭」が行われます。御田植祭は広く「おんだ祭」とも呼ばれる豊作を祈願する予祝行事です。写真は、儀式の始まりを緊張した面持ちで待つ、牛に扮した牛童(うしわらべ)君や早乙女さんたちです。
儀式が始まりました。御田植祭の一行は、水田に見立てた神社の拝殿に向う「お渡り」から始まります。御幣をつけた笹竹を先頭に、巫女、牛に扮した牛童、翁の面をつけた田主、早乙女、神官等の順で境内を一周します。
いったん南側の門から出て‥
ぐるっと「お渡り」したあと‥
神門から拝殿へと入ります。ちなみに、このような立派な神門(楼門)と回廊を持つ神社は、奈良市内では、他には「春日大社」しか存在せず、手向山八幡宮は、奈良市では春日大社に次ぐ二番目の規模を持つ神社と言っても過言ではありません。
一行は水田にみなした拝殿に上がり、御田植祭の儀式が始まります。
神主が扮する「田主」が翁面を着けて能楽様式を兼ねる古式な伝統行事は、民俗学的にも貴重な祭で、奈良市無形民俗文化財に指定されています。
まずは、田主が御幣を畦に立てて鍬で苗代を耕し‥
田主が唐鍬(からすき)を持ち、牛に扮した牛童と共に田起こしを行います。水田にみなした拝殿内を一周する間、牛童が「モ~、モ~」と何回も可愛く鳴くたびに、観客から大きな拍手と歓声があがります。
このあと、榊と松で飾られた天秤棒を田主は担ぎ出します。この天秤棒は、肥担桶(こえたご)を象(かたど)っているのだそうです。私も何回か、この行事を見てきましたが、この仕草が肥担桶とは今の今まで知りませんでした。仲々微に入り細にわたった演出です。
田主は「福桶」を持って種籾(もみ)を蒔きます。「福の種、蒔こうよ」「東田へ蒔こうよ、西田へ蒔こうよ、南田へ蒔こうよ、北田へ蒔こうよ、川上田へ蒔こうよ、日本国、蒔こうよ」と謳います。
そして、田主が四方から早乙女を招きいれて口上を述べ、四人の早乙女は稲苗に見立てた松苗を供えます。最期に、田主は扇を取り出し能楽調の格調高い口上を詠みあげ、御田植祭を終えます。
儀式の後は、お楽しみの 福豆の授与(豆まき)です。我も我もと、福を授かる手があちこちから伸びてきます。
私もこの時ばかりはカメラをしまって、福の豆入手に奮闘します。結果、3個の「福豆」をゲットしました。
さて、平安時代に日本の朝廷に定着した「追儺会(ついなえ=鬼追い式)」行事は、室町時代になると、豆をまいて悪鬼を追い出すという行事へと発展し、民間にも広まっていきました。この「豆をまく」と云う俗習も中国から伝わったと云われており、豆=魔滅(まめ、魔を滅す)と云う言葉の意味にならって、無病息災を祈り、邪気を払うことが出来るものと信じられて来ました。そして節分は、年末(旧暦の大晦日)に旧年の厄を祓って、新たなる年を迎えるための行事でした。仏教とか神道とかの宗教とは関係なく、人間が純粋に無病息災を願う気持ちを表わした行事でした。そうした日本古来の民間行事を、それぞれの宗教・宗派が取り入れて、独自に発展していったのが現在の節分行事です。
御田植祭のあと、田主(神主)さんと話をされていた左奥の男性は、TVでお馴染みの「ヒゲの梶さん」こと 梶本晃司先生 でした。先生とは4年前の2015年の節分でも、ここ手向山八幡宮でお会いしており、久しぶりの再会でしたので、ご挨拶させていただきました。2015年梶本先生と出会った手向山八幡宮の節分は → こちら。
正午前に手向山八幡宮を退出し、近くの東大寺・二月堂に立ち寄ってみました。奈良市内の午前中の節分行事は手向山八幡宮だけで、午後から元興寺、東大寺・二月堂、興福寺、春日大社などでも行われます。
東大寺・二月堂の豆まきは午後2時からです。まだ2時間以上もありますのに、豆まき会場は早くも陣取り合戦です。私にはもう豆まき争奪戦に参加する体力も気力も残っておらず、豆まきは遠慮して、二月堂の舞台に登り‥
東大寺・二月堂の福寿豆を買い求めて、早々に帰途につきました(この豆、意外と美味しかったです)。
儀式が始まりました。御田植祭の一行は、水田に見立てた神社の拝殿に向う「お渡り」から始まります。御幣をつけた笹竹を先頭に、巫女、牛に扮した牛童、翁の面をつけた田主、早乙女、神官等の順で境内を一周します。
いったん南側の門から出て‥
ぐるっと「お渡り」したあと‥
神門から拝殿へと入ります。ちなみに、このような立派な神門(楼門)と回廊を持つ神社は、奈良市内では、他には「春日大社」しか存在せず、手向山八幡宮は、奈良市では春日大社に次ぐ二番目の規模を持つ神社と言っても過言ではありません。
一行は水田にみなした拝殿に上がり、御田植祭の儀式が始まります。
神主が扮する「田主」が翁面を着けて能楽様式を兼ねる古式な伝統行事は、民俗学的にも貴重な祭で、奈良市無形民俗文化財に指定されています。
まずは、田主が御幣を畦に立てて鍬で苗代を耕し‥
田主が唐鍬(からすき)を持ち、牛に扮した牛童と共に田起こしを行います。水田にみなした拝殿内を一周する間、牛童が「モ~、モ~」と何回も可愛く鳴くたびに、観客から大きな拍手と歓声があがります。
このあと、榊と松で飾られた天秤棒を田主は担ぎ出します。この天秤棒は、肥担桶(こえたご)を象(かたど)っているのだそうです。私も何回か、この行事を見てきましたが、この仕草が肥担桶とは今の今まで知りませんでした。仲々微に入り細にわたった演出です。
田主は「福桶」を持って種籾(もみ)を蒔きます。「福の種、蒔こうよ」「東田へ蒔こうよ、西田へ蒔こうよ、南田へ蒔こうよ、北田へ蒔こうよ、川上田へ蒔こうよ、日本国、蒔こうよ」と謳います。
そして、田主が四方から早乙女を招きいれて口上を述べ、四人の早乙女は稲苗に見立てた松苗を供えます。最期に、田主は扇を取り出し能楽調の格調高い口上を詠みあげ、御田植祭を終えます。
儀式の後は、お楽しみの 福豆の授与(豆まき)です。我も我もと、福を授かる手があちこちから伸びてきます。
私もこの時ばかりはカメラをしまって、福の豆入手に奮闘します。結果、3個の「福豆」をゲットしました。
さて、平安時代に日本の朝廷に定着した「追儺会(ついなえ=鬼追い式)」行事は、室町時代になると、豆をまいて悪鬼を追い出すという行事へと発展し、民間にも広まっていきました。この「豆をまく」と云う俗習も中国から伝わったと云われており、豆=魔滅(まめ、魔を滅す)と云う言葉の意味にならって、無病息災を祈り、邪気を払うことが出来るものと信じられて来ました。そして節分は、年末(旧暦の大晦日)に旧年の厄を祓って、新たなる年を迎えるための行事でした。仏教とか神道とかの宗教とは関係なく、人間が純粋に無病息災を願う気持ちを表わした行事でした。そうした日本古来の民間行事を、それぞれの宗教・宗派が取り入れて、独自に発展していったのが現在の節分行事です。
御田植祭のあと、田主(神主)さんと話をされていた左奥の男性は、TVでお馴染みの「ヒゲの梶さん」こと 梶本晃司先生 でした。先生とは4年前の2015年の節分でも、ここ手向山八幡宮でお会いしており、久しぶりの再会でしたので、ご挨拶させていただきました。2015年梶本先生と出会った手向山八幡宮の節分は → こちら。
正午前に手向山八幡宮を退出し、近くの東大寺・二月堂に立ち寄ってみました。奈良市内の午前中の節分行事は手向山八幡宮だけで、午後から元興寺、東大寺・二月堂、興福寺、春日大社などでも行われます。
東大寺・二月堂の豆まきは午後2時からです。まだ2時間以上もありますのに、豆まき会場は早くも陣取り合戦です。私にはもう豆まき争奪戦に参加する体力も気力も残っておらず、豆まきは遠慮して、二月堂の舞台に登り‥
東大寺・二月堂の福寿豆を買い求めて、早々に帰途につきました(この豆、意外と美味しかったです)。
コメント
コメント一覧 (8)
この様な素晴らしい行事の仕方は後世に伝えて欲しいです。
ここでも善光寺では大規模に行われたようですけど、例によって
人混み嫌いでパスです。
福豆を3つもゲットとは、おめでとうございます。たくさんの福が来そうですね(^_-)-☆
実際にこのような賑やかさがあったのでしょうね 庶民の楽しみと言えばお祭りぐらいだったでしょうから
お祭りは平和の象徴の一つ 伝統行事が行える環境を維持できること=平和=美しい日本 ですよね
コメント有難うございます。
仰るように、この神社のお祭は古式豊かですが、大々的な「豆まき」もせず、こじんまりとしているところが良いです。五穀豊穣と云う農耕儀礼なのが余り受けないのでしょうね。同じ「おんだ祭り」でも飛鳥坐(あすかにいます)神社は子孫繁栄と云う性の営みの儀式なので、一度は見たいと全国から大勢の観客が集まります。どちらにしても、古くから地域で受け継がれてきた伝統行事ですので、末永く後世に伝えていきたいものです。
コメント有難うございます。
節分の行事は、大きく分けて2つあるように思います。1つは邪気を払う鬼追いの儀式、もう1つは新しい年の五穀豊穣や子孫繁栄を願う儀式です。後者は必ずしも節分の日でなくても、節分以降でも行われることがあります。庶民が新しい年を迎えるにあたって、心機一転したい気持ちがあるのでしょうね。
コメント有難うございます。
五穀豊穣を願う「田植えの祭」なので、余りマスコミ受けしないのでしょうね。でも、こうした五穀豊穣や子孫繁栄はいつの時代も「そうあってほしい」気持ちは同じで不変ですね。こうした古くから地域で受け継がれてきた伝統行事は、末永く後世に残してほしいものです。
コメント有難うございます。
仰るように、お祭は、なによりも地域の一体感と云うか絆を強くする手段であり、かつ楽しみだったのでしょうね。五穀豊穣、子孫繁栄といった、最も身近で大事な幸せを一番に願うのは当然のことだったと思います。それらは、すべて平和であることの上で成り立っていると云うことなんですね。