お正月の新聞に挟み込まれた沢山のチラシ広告をヒマに任せて次々に見ていたら、白い紙に赤文字で片面だけ記された「当尾のえべっさん」というチラシが目に留まりました。場所は森八幡宮となっています。えっ!あそこにエビス神社なんてあったのかなぁ?と怪訝に思っていると、ちゃんと紙面にも「”いやぁ知らんかったわぁ”という方、是非一度お運び下さい」って、まるで人の心を見透かしたような言葉が続いています。日時は1月5日午前8時~です、と。朝早うからするんやなぁと思いつつも、知らんかった私としては、一度は見ておかねばと、この誘い文句にすっかり乗せられて、行くことに決めました。

 自宅から八幡宮まで歩くとすれば小1時間かかります。加茂駅から1日に4本だけ出る大畑(当尾奥山)行きの地域コミュニティバスの1本目は朝8時34分に出ます。これに乗って現地まで行くことにしました。自宅近くから加茂駅まではバスもありますが、歩いても25分くらいなので、ここは眠気ざましのつもりで駅まで歩くことにしました。JR加茂駅にはバス発車の10分前に着きました。

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 学生時代、鉄道研究会に入っていた鉄道ファンの私としては、木造の古い加茂駅に愛着があったのですが、関西本線(大和路線)の電化でアッサリ壊されてしまいました。その横に大仏鉄道の記念モニュメントが木津川市の誕生を記念してつくられています。明治時代、民営の関西鉄道が名古屋から加茂までつながり、更に加茂から奈良まで延長されたのが俗に云う「大仏鉄道」です。今は僅かに残る廃線跡の遺物を、加茂駅・奈良駅間を歩きながら訪ねる「大仏鉄道ウォーキング」が、年に数回行われていて人気も高いようです(大仏鉄道については改めて紹介したいと思っています)。

 そうこうしているうちにバスの時刻になりました。10人乗りワンボックスカーのコミュニティバスに乗り(乗客は私だけでした)、約10分で森八幡宮前のバス停に着きました。おっ!初詣の旗が出ているではありませんか。車も十台ばかり駐車しています。
 この森八幡宮は、社伝によると、天平十二年(740)聖武天皇が山城 恭仁京への遷宮のとき勧請された、と伝えられている、大変古い謂れのある神社なんです。岩船寺横の白山神社(重文)が749年の創建ですから、当尾はこの頃から朝廷にも奈良の有力寺院(東大寺・興福寺)にも注目されていたのですね。

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 神社の前を流れる小川(八幡川)の石橋を渡ります。この石橋に関する石碑が、今は石段を登った本殿の近くに移されていますが、先にお見せしたいと思います。石橋石碑には、鎌倉時代中期 寛元三年(1245)の年号が記されており、この地域の石造物では最古の貴重なものですので、訪ねられた時には見逃さないで下さいね。

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鳥居の柱には門松?が飾られていました。昔は門松は松に限らず、榊・杉・椎・椿・楢などの常緑樹なら何でも良かったそうです。樹木に疎い私ですが、これは榊の木なのでしょうか。石段を上ると拝殿があり、その拝殿の手前右に手水舎があります。今日は柄杓がきれいに並べてありました。

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 本殿は拝殿のすぐ上方にありますので、拝殿左方より写真を撮ってみました。えっ!本殿の横に小さな祠があるではないですか。ここへは何度も来ていながら、今まで全く気にも留めてなかったのです。しかも、新しく「恵美須神社」という立て札まで新調されて立っていましたから、イヤでも目に付きました。ここにあったのかぁ。

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 朝8時から宮司さんの祝詞があったようで、それは見ることが出来ませんでした。早くから来た人はもう帰られたのでしょうか。この時間(9時)の参拝者は私と他の2組だけでした。参拝を済ませたら、丁度、地元関係者の人が居られたので話を聞いてみました。恵美須神社は、もとはここにはなく、当尾の村中を何度か移りながら、ここへは明治維新の際に移転して来たのだそうです。森八幡宮は平成4年の台風で本殿が全壊し、復元されましたが、お話によると、300年ほど前にも、山の岩石が落ちてきて全壊したそうです。その時、村の人が神社の設計図を持って大坂へ製作を頼みに行き、部材をそこで製作して淀川から木津川へと2艘の舟に乗せて加茂の浜まで運んで来た、それを、ここに持ち込んで組み立てた、と云うことが書かれた古文書が最近見つかった、江戸時代の昔からプレハブ(?)ってあったんやなぁと、おっしゃっていました。

 拝殿の右を行くと、森八幡宮で一番有名な、線刻不動明王・毘沙門天像の魔崖仏があります。向かって左が不動明王、右が毘沙門天です。毘沙門天の磨崖物は、かなり珍しいです。ともに京都府の指定文化財で、鎌倉時代後期 正中三年(1326)の作です。昔は拓本マニアがよく無断でとっていたそうですが、今は禁止の立て札も出され、魔崖仏の上も屋根で覆われて、風雪被害から守られています。

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 石段の途中に社務所があります。普段は無人ですが、今日は部屋も開けられ地元関係者の人達が集まり、福笹が売られていました。

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 この森八幡宮を中心に「ずんどぼう」と呼ばれる怪力無双の大男の伝説が残っています。「或る日、ずんどぼうが牛を引いて奈良へ行く途中、橋を渡っていると、向こうから殿様の行列がやってきた。困ったずんどぼうは、とっさに牛の前足2本と後足2本を両手で握り、牛を持ち上げて欄干から外に突出して、行列を待っていました。この有様を見た殿様は”何と大力の者ぞ”と感心され、云々」とか、「昔はお祭りの相撲大会が娯楽で、ずんど坊も見物に行っていたところ、勝ち残った最後の力士が”誰か他に相手になる者はいないか”と大声で自信ありげに周囲を見廻した。ずんど坊が”俺が取ろう”と名乗り、近くの竹薮へ飛び込み、青竹を1本引き抜き、青竹でしめこみをして、土俵へ上がりました。これを見て、先程まで勝誇って偉丈高になっていた力士は、こんな怪力と角力を取ったらどうなるかわからないと、ほうほうの態で逃げてしまった」 <加茂町50周年実行委員会編「加茂のむかしばなし」より>

 久しぶりに裏山の「ずんどぼうの杖」と云われるところへ足を伸ばしてみました。途中の山腹に少し平坦な所があります。「神福寺」の跡で、昔は塔頭が建っていました。今は片隅(奥の方)に幾つかの石仏だけが残されています。よく「ずんど坊の笠塔婆」という言い方で紹介されていることがありますが、正しくは「神福寺跡の笠塔婆」と云うべきでしょう。ずんどぼうと笠塔婆は直接的な関係はありません。

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 笠塔婆(鎌倉時代後期作)は、正面に二段の舟形の彫り込みを作り、上段に阿弥陀如来、下段に地蔵菩薩が彫られています。縦に阿弥陀と地蔵の二尊を刻む珍しいものだそうです。

 先述しましたように「ずんど坊の笠塔婆」という不適切な表現から、笠塔婆を「ずんどぼう」の遺物と勘違いして、ここで引き返してしまう人が居られるようです。笠塔婆の場所から更に山を登っていくと、「ずんどぼうの杖」があります。

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 ここには標識がかろうじて残っています。この大きな岩の向う側に「ずんどぼうの杖」があります。

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 この右側の草をかぶった細長い石が「ずんどぼうの杖」と云われる物です。とても杖になるような形状ではないのですが、ずんどぼうは力持ちだったので、石の杖を使ったとの言い伝えが残ったのでしょう。

 
 えべっさんも見たし、帰りは自宅までウォーキングです。森八幡宮近くの高去(タカサリ)という集落の集会所裏に立寄りました。ここには石仏群と一緒に、3つの六字名号板碑も寄せ集めて並べられています。板碑は左から、頭頂が少し欠けている永禄五年(1562)の作、少し小型の永禄七年(1564)、慶長九年(1604)の制作です。

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 ようやく身体も温まってきました。自宅までの道すがら、民家の庭のロウバイ(蠟梅)などを楽しみながらの歩きでした。本日の歩程は、バスに乗ったこともあり、実質6.5kmと散歩並みでした。