ジンム・スイゼイ・アンネイ・イトク・コウショウ・コウアン・コウレイ・コウゲン・カイカ・・・etc、子どもの頃、母から聞いた記憶が蘇ってきました。戦前はこのように天皇系図を暗記させられたそうです。建国伝承の天皇陵を歩く企画があると聞き、古代史好きな友人と参加を決めました。
 ここしばらくは一日おきに雨が降ったり止んだりと不安定な天候が続いています。ウォーク当日も、前日は雨模様でしたが、コースは殆ど市街地中心で平坦なので、歩くのには支障なさそうです。

★橿原市観光協会「建国伝承の地の陵墓を歩く」 3/11

 木津駅で友人と落ち合い、郡山でJRから近鉄へと移動・乗り換えて、近鉄・畝傍御陵前駅には9時15分に到着しました。受付を済ませて、出発の10時までしばし雑談・休憩です。空模様をと見上げてみたら、雲一つない青空に変わっています。そうこうしているうちに、次々に参加者も集まり、出発時には200人以上に膨れ上がりました。20名前後で1組となり、順次スタートです。当然我々は1番目のグループです。

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 スタートしてすぐ、国源寺手前の水路の先に大軌鉄道のアバット(橋台)が残っています。1923年に大阪電気軌道(大軌)が畝傍線(うねびせん)の名で西大寺駅~橿原神宮前駅を全通したときの路線跡です。1939年に橿原神宮の神域拡張のため、この路線は取り除かれ、八木西口駅~橿原神宮駅(現在の橿原神宮前駅)間は東側の現在の位置に新しく移設され、この時に線名も現在の橿原線となりました。蛇足ながら、大阪電気軌道(大軌)は近鉄の前身会社です。1944年に近畿日本鉄道と改組され、現在に至っています。

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 国源寺隣の大久保町公民館敷地内にある「大窪寺の塔心礎」です。天武天皇期に存在したお寺だそうです。また、近くには、万葉集に歌われた「桜児(さくらこ)伝説(2人の男に好かれた桜児という娘が争いを鎮めるために自殺したという)」石碑も建てらています。

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 いよいよ本日のテーマ建国伝承の地の陵墓(初代天皇から第4代天皇までの陵墓)」をメインとして訪ね歩きます。まず最初は神武天皇陵の北側に位置する「代・綏靖(すいぜい)天皇」です。桃花鳥田丘上陵(つきたのおかのうえのみささぎ)と云われています。

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 広大な敷地を南側に廻りこむと、宮内庁・畝傍陵墓監区事務所も置かれている「初代・神武天皇陵」です。通称・山本ミサンザイ古墳と呼ばれ、宮内庁名は畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)と命名されています。

 畝傍山の北側から西側・南側へと山麓をまわる様にウォーキングです。弘法大師の「大師堂」を見て、「スイセン塚古墳」を見て、「畝傍山口神社」参道口を経て南に歩を進めます。

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 3代・安寧(あんねい)天皇陵」です。畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほとのいのえのみささぎ)と云われます。

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 「4代・懿徳(いとく)天皇陵です。畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまさごたにのえのみささぎ)と云われています。第2代から第9代天皇までは、いわゆる「欠史八代」と云われ、存在が疑問視されている天皇達です。

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 11時45分、橿原神宮に到着です。多数のマガモやカワウなどを見ながら深田池畔で昼食です。

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 昼食タイムを利用して食後、久しぶりに橿原神宮境内を散策しました。南神門(写真・上)を入ると、外拝殿の大きな建物の背後に畝傍山が見えます(写真・中)。可愛い八咫烏(やたがらす)の健康お守りがあったので、買ってしまいました(写真・下)。

 12時20分再スタートです。橿原神宮西口を南下し、益田池堤跡の横を橿原高校方向に進みます。

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 「28代・宣化天皇陵」です。通称・鳥屋ミサンザイ古墳、宮内庁名・身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)と云われています。

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 11代・垂仁天皇の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)墓」です。「殉死の禁止と埴輪の起源」で有名な墓です。通称・桝山古墳、宮内庁名・身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかはか)と云われています。垂仁天皇は、弟の死に際して古の風習に従って、「墓のまわりに生前の側近を生き埋めにしたが、殉死者は数日間も死なずに昼夜呻き続け、死後は犬や鳥が腐肉を漁ったという(ウィキペディアより)」。垂仁天皇はその苦しみ方を見て、心を痛めて「殉死」を禁止し、それに代わる方法として、野見宿禰(のみのすくね)が提案した埴輪を採用したと云われています野見宿禰はこの功績により土師(はじ)の名前を賜ります。*この関連事項については、当ブログのウォーキング「古市古墳群を歩く」をご覧下さい。

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 宣化天皇陵周壕と繋がっている鳥屋池南側から見た畝傍山です。あとは高取川に沿って近鉄・岡寺駅まで行き、国道169号線を横断します。

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 ウォーク最後の訪問地、丸山古墳です。正しくは「見瀬丸山古墳と云います。宮内庁の陵墓参考地(畝傍陵墓参考地)に指定されています。墳丘長318m、奈良県で最大、日本で6番目に大きい古墳(前方後円墳)です。後円部の横穴式石室は全長28.4mで、明日香村の有名な石舞台古墳の約19mを凌ぐ我が国最大のものです。被葬者は不明ですが、欽明天皇か、あるいは蘇我稲目ではないかと云われています。

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 後円部から見た前方部です。大きな運動会が十分出来る広さです。正面に畝傍山、左後方に二上山が見えています。
 あとはゴールの橿原神宮前駅へ一直線に帰るだけでしたので、我々はここで皆さんと別れて、遠回りして橿原神宮前駅に戻ることにしました。

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橿原市の)八咫烏(やたがらす)神社に立寄りました。八咫烏神社は全国各地にいろいろありますが、奈良県の大宇陀にあるのが最も有名ですね。勿論、祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)です。

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 本殿前の石段下の踏み石です。これは近くの植山古墳西石室の扉石であったと云われています。植山古墳は発掘された時点で、石室上部がすべてなくなっていて、この八咫烏神社を含めた3神社で、それらの石材の一部が発見されています。

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 寄り道の最後は欠史八代の1人「8代・孝元天皇の陵」です。通称は中山塚1~3号墳、宮内庁名は剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ)と云われています。

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 孝元天皇陵は、宮内庁名の通りですね。まるで石川池(剣池)に浮かんでいるように見えます。

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 ゴールの近鉄・橿原神宮前駅東口です。先程、丸山古墳で別れたボランティアガイドの担当ガイドさん達が待っていてくれました。お礼を述べてお別れしました。本日の歩程は 14.8km でした。