滋賀や奈良の山村を訪ね歩く 「かくれ里」をはじめとして、数多くの著作で高名な白洲正子さん。その知的センスで紹介されたいろいろな形での日本の美と原点。大好きな人の一人でした。その正子さんの名を冠したウォーキングがありました。でも、今回のウォーキングで正子さんと関連する場所は円照寺だけ。案内文を見ると、石上神宮や正暦寺(しょうりゃくじ)をも訪ね歩く企画とのことでしたので、白洲正子と正暦寺の2つの文字に惹かれて参加することにしました。正暦寺を訪ねたい理由は何だったのかは、現地に行ってのお楽しみです。

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 白洲正子さんと著書「かくれ里」(講談社文芸文庫)。 正子さんはこの本の冒頭で、 ”「かくれ里」と題したのは、別に深い意味があるわけではない。・・・これから私が書くものには、いく分それに近い面もあるかも知れないが、秘境と呼ぷほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである” と記されています。

★JRハイク・オレンジクラブ一歩会 「山の辺に正子が歩いたかくれ里を訪ねて」 3/3

 今回のウォークは、1/27に参加した「布留(ふる)の里を歩く~天理市周辺ウオーク」と、2/2に参加した「北・山の辺界隈を歩く~奈良市周辺ウォーク」の、この2つのウォークを一緒にしたような、いわば総集編とも云うべきウォーク企画です。

 同行予定だった友人が急用で不参加となりましたが、当日 JR奈良駅で万葉まほろば線に乗り換えたら、ウォーク友達のNさんと久しぶりに遭遇しました。当企画に参加するために来たとのことで、喜んで一緒に行くことになりました。受付状況を見ていると、本日の参加者は50~60名位でしょうか。

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 天理駅前広場で、受付と準備体操を済ませてスタートです。

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 天理教教会本部前を通過し、最初の訪問地は「石上(いそのかみ)神宮」です。

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 以前にも紹介した石上神宮に放し飼いされている人気者のニワトリ達。左の鶏が烏骨鶏うこっけい)、白い羽のものと黒い羽の2種類がいます。右は長鳴き鶏の一種、東天紅です。

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 1/27の「布留の里を歩く」ではコースカットして立ち寄らなかった「布留の高橋」です。ご覧の通り、万葉のイメージは全くありません。昔は高い橋だったので高橋と呼ばれたようですが、ここは古代から物部氏の土地だったので、物部氏から出た姓のひとつ・高橋氏(奈良市の高橋神社が祖)が住んでいた所なので高橋と云ったようだ、という説も本日のガイドさんから教わりました。

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 豊日神社から豊田山城址を歩き、石上大塚古墳を過ぎると、前回は素通りしたウワナリ塚古墳です。「古墳に興味のある人は寄り道してもOKですよ」との案内で、行ってみました。石室の入り口が土でかなり埋まっていて狭いです。「中にも 入れますよ」と言われましたが、入口が狭そうなので、誰も這いつくばってまでして入ろうとする人はいません。私も開口部から真っ暗な内部をフラッシュ撮影だけしてUターンしました。

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 撮影した画像を確認してみたら、ありゃ~、一人入っていました。石室内は遠い昔に盗掘されつくされて、古墳の年代を確認できるものは一切残っておらず、詳細不明の(石室の構造等から 6世紀中頃に築造されたと推定される)古墳です。両袖式の石室内は結構大きく、この頃の後期古墳に限ると、見瀬丸山古墳(橿原市)に次ぐ大きさだそうです。

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 名阪自動車道(国道25号線)の下を北へ通り抜ければ、白川ダム貯水池です。ここの万葉の森公園で昼食となりました。

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 弘仁寺の横を通り過ぎ、柳茶屋跡まで一旦下って、そこから再び正暦寺に向かって上り坂を登っていきます。途中にある「泣き笑い地蔵」です。泣き顔に見えるのは水子地蔵(右)で円光光背を、笑い顔に見えるのは身替地蔵(左)で船型光背を負っています。ここは正暦寺の元・南大門があった所です。

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 菩提仙川に沿って正暦寺の駐車場近くまで来ました。モミジの名勝で秋には素晴らしい紅葉見物で賑わいますが、今はモミジも枯れ木同然です。

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 正暦寺境内の入口近くに「日本清酒発祥之地」の石碑が建っています。平安時代中期から室町時代末期にかけて、もっとも上質で高級であった酒とされる菩提泉ぼだいせん)は、正暦寺の境内を流れる菩提仙川の水と、菩提という酒母・製法を用いて造られた僧坊酒で、南都諸白なんともろはく)と呼ばれました。これが日本清酒の始まりと云われています。紅葉シーズンには、ここに清酒販売の出店が立つこともあるのですが…今日は石碑とだけ再会です。

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 創建(992年)当初は、堂塔・伽藍を中心に86坊もの塔頭があった大寺院だった正暦寺ですが、平重衡の南都焼き討ちの際、その類焼を受け全山全焼しました。その後再興したものの江戸時代以降は衰退して、今は福寿院客殿と本堂と鐘楼を残すのみとなっています。

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 見つけました、咲いてました。正暦寺を訪問したかった理由…それは、この時期、タイミングさえ合えば福寿草と出会えるのではないか、と云う期待でした。まさに予感的中でした。ウォークに参加して良かったです。私が写真を撮ってるのを見て、何人かが一緒に写真を撮り出し、花の名前を尋ねてきますが、大半のウォーカーは花には関心はないようでした。境内とは云っても、ここは山の中の自然のままの環境です。

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 今日は太陽も照っていたので花もしっかり開いていました。期待した通りだった正暦寺での花との出会いの後は、次なる訪問地・正子さんが「かくれ里」で取り上げられた円照寺に向かいます。円照寺に抜ける山道は雨の影響でドロドロです。皆さん滑らぬように慎重になられて、細い登り道はたちまち行列待ちとなってしまいました。

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 円照寺の僧坊のある所から、かなり離れた山裏にある円照寺宮墓地に着きました。今日は逆周りに歩いていますので、裏手の方に先に到着です。ここに円照寺の初代門跡である第108代・後水尾天皇の第一皇女・梅の宮こと 文智女王の墓(写真・鞘堂内)があります。周囲にはこの時代の多くの皇女達のお墓が建てられていて、高貴な尼さんの墓地であることを感じさせます。管理は宮内庁となっています。

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 円照寺への山道に入る分岐点に、五つ塚古墳群があります。道筋に5つの古墳が小山のように並んでいます。

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 山を越えて円照寺参道の中程に出てきました。昼でも薄日しか射し込まず、薄暗いこの参道の雰囲気が私は大好きです。

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  ”円照寺の道標から、山へかかったとたん景色は一変する。両側はのどかな桃畑で、その中に池があったり、古い社や古墳が点在して、昔ながらの山中の景色となる。雑木林の山道を登って行くと、突き当たりに黒い山門が見え、端正な敷石が真直ぐ玄関まで続いている。私がついた時は、山の端をはなれた月が白々と境内を照らし、いかにも尼寺らしい清浄な空気に包まれていた”  (「かくれ里」の1章「山村の円照寺」より)。正子さんが訪ねられた夕暮れは特にいいですね。

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 山門を入っったところから見た寝殿造で唐破風の玄関を持つ書院。五本線の入った築地塀と砂利の中の敷石、とのシンプルな構成が美しく感じられます。正子さんが記されている通り、(菱形の)端正な敷石が真直ぐに(書院の)玄関まで続いています。円照寺は華道・山村御流の家元で「山村御殿」とも呼ばれています。門跡寺院で非公開(拝観不可)となっていますので、普段でも訪れる人は殆どなく、今も「かくれ里」として残っていると、云っていいでしょう。

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 崇道天皇(早良親王)・八島陵に立ち寄り…あとは平坦地を帯解に向かうだけです。

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 JR帯解駅に到着、ここがゴールでした。次の電車まで30分近く時間がありましたので、友人と二人で帯解寺に行きました。年に一度だけの秘仏特別公開中でしたので、電車の時間に間に合うよう急いで拝観を済ませて駅に戻りました。

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 コース概略:JR天理駅(スタート)→天理教教会本部前→石上神宮→布留の高橋→豊日神社→豊田山城跡→石上大塚古墳→ウワナリ塚古墳→白川ダム(昼食)→弘仁寺→柳茶屋跡→正暦寺→円照寺宮墓地→五つ塚古墳群→円照寺→崇道天皇陵→帯解小学校→JR帯解駅(解散)→帯解寺(ゴール)。本日の歩程は約 20.0km でした。 これで3月は1日から3日まで連続ウォーキングで、約 40.0km となり、月 100km 以上の目標も今月は楽にクリア出来そうです。