生駒山系の北部に位置する飯盛山へは何回か登っていますが、山頂の「飯盛山城址石碑」と「楠木正行(まさつら=小楠公)の銅像」以外には、城跡の遺物は見たことがありませんでした。飯盛山城は、現在の大阪府大東市及び四条畷市にまたがる、標高315.9mの飯盛山に築かれた山城です。標高は左程高くはありませんが、遠く京都から大阪平野と大阪湾、泉南方面まで、また、東には大和の生駒を見渡せる地の良さは、戦略上、重要な軍事ポイントでした。南北朝時代に築造され、南北1200mの規模を持つ日本有数の山城でした。今回は地元の「なわてロードガイドゆずりは」のボランティア・ガイドの方々と四条畷市の職員の人たちが、この中世の山城を案内してくれる、人員50名限定企画でした。山城好きの友人が、いち早く、私の分まで予約を入れてくれました。

★JRハイク「中世山城と三好一族の 河内飯盛山城跡を歩く」 1/19

 JR学研都市線(片町線)の車内で友人と落ち合い、JR四条畷駅で下車、集合場所で受付・準備体操を済ませて、10時過ぎにスタートです。

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 四条畷駅の少し北側を右(東)に曲がると、四条畷神社への真っ直ぐな参道が約 1km ほど続いていて、途中の国道170号線と交差する地点に一の鳥居、参道が山麓に突き当たる所に二の鳥居があります。

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 二の鳥居をくぐり、百段の石段を登ると、三の鳥居があり、左手に神社の境内が広がっています。神社の主祭神は、南朝の将として戦い、四条畷の戦いで敗死した楠木正行です。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれています。新年絵馬が残る拝殿前で、ガイドさんの説明を聞きます。

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 境内にある楠木親子の「桜井の別れ」像です。足利尊氏軍と戦うために神戸・湊川に出征する父・楠木正成が、11才の息子・楠木正行に、天皇から賜った菊水の紋が入った短刀を託し、吉野へ戻させ、いずれ天皇のために戦えと、今生の別れをする有名なシーンです。桜井は奈良の桜井ではなく、京都と大阪の府境にある、現在の大阪府三島郡島本町あたりにあります。

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 四条畷神社の横から住吉平田神社前へ出て、権現川ハイキングコースをとりながら山の中を登って行きます。滝谷楠水の場で小休止したあと、楠公寺への杉林の急坂を登ります。楠公寺は昭和25年に飯盛山の中腹に開山された新しいお寺です。楠木正行公の霊が「我が魂を鎮めよ」と云った、との声を聞いた尼僧が建てたそうですが‥?。寺名は当時の池田隼人首相の命名です。

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 ほぼ飯盛山の東側直下くらいまで来ているのですが、大きく迂回して南へと進路を取ります。

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 山中にある大東市立野外教育センターに到着、時間もお昼となり、この周辺で昼食をとりました。

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 桜池から尻池へと向かいます。戦国時代に飯盛山城を掌握した三好長慶は、キリシタン大名の一人で、ポルトガル宣教師がこの山中で住民達に洗礼を施したそうです。

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 尻池から尾根筋に出て、北へと進みます。途中の峰にあるNHK・FM送信所を越えると、次の峰が飯盛山です。

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 飯盛山・山頂に到着です。飯盛城址の石碑と、楠木正行の銅像が建っています。桜井の別れのあと12年後に、(23歳となった)正行は父の遺志を継ぎ、足利側の高師直(こうのもろなお)軍と、この四条畷で果敢に戦いますが、敵の圧倒的な軍勢の前に敗れ、弟の楠木正時と刺し違えて自決してしまいます。ちなみに、楠木正行は飯盛城とは直接の関係はありません。四条畷の戦いは山麓の四条畷市から大東市、あるいは東大阪市水走あたりで戦われました。
<追記> 「太平記・巻二十六」の「四条縄手合戦の事附上山討死の事」:劣勢だった正行たちは、せめて敵将の首だけでも討ち取りたいと、僅かの隙を見つけて、敵将・高師直本陣に突進し、満身創痍となりながらも、見事、高師直の首を仕留めたのでした。ところが、これは高師直を逃がすために、師直の鎧を着て身代わりとなった上山六郎左衛門の首だったのです。別
人の首だった事に落胆する正行は、一旦首を投げ捨てたものの、「お前は日本一の勇者だ。大君の御為めには無上の朝敵だが、余りにも強い振舞は立派なものだ、他の首と一所には混へまいぞ」と、着ていた小袖の片袖を千切つて其首を包んで岸の上に置いてやったあと、今はこれまでと潔く正時と自決したのです。

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 小楠公の若くて凛々しい武者姿です。南朝方の武将として最後まで勇敢に戦った正行の像は、北側、京都の方向に向いていました。いつの日か京都の御所に(南朝の)天皇を送り届けることを願っていたに違いありません。楠木正行が死を決意して、吉野から四条畷の合戦に赴く前に、吉野の如意輪寺で(南朝の)後村上天皇に拝謁した出来事は → こちら。

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 飯盛山山頂から見た大阪方面。右手のビル群が梅田、左手の高いビルが阿倍野ハルカスです。

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 山頂から北西方面の眺望。左手から伸びる丘陵の端が天王山(京都と大阪の府境)ですから、その辺りが楠木親子「桜井の別れ」の地です。中央には愛宕山、右手前の山の向こうが京都市内となります。

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 展望後は山頂周辺の山中を、行きつ戻りつ、飯森城の遺跡である、いろいろな石垣を訪ね歩きました。

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 普段は滅多に訪れることのない飯盛城の石垣跡を巡ったあとは、楠公寺の手前から往路と同じ山道を下って山麓に戻り、御机神社前の龍尾寺を訪ねました。竜王の怒りに触れ、頭・胴体・尾と、三つに切断された若い龍の、尾の部分がこの龍尾寺に保存されていて、寺名の由来となっていますが、龍尾寺の龍尾の伝説や紅葉の美しさについては、どこででも紹介されていますので、ここでは殆ど知られていない左側にある鐘楼の鐘についてご紹介です。

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 お寺の鐘の内側に隠れるように彫られている十文字?。ガイドさんの話では 「ここはキリシタンが多かった地だったので、キリスト教禁制後の隠れキリシタンの遺物だと思われる」 とだけの説明でしたが‥Iimori16

 四条畷のすぐ隣には有名な野崎観音があります。上の「野崎観音の謎」と云う本には、野崎観音の鐘にも、龍尾寺の鐘にも、同じように内部に十文字が見られる、とあり、この鐘の製作者は「枚方之住田中河内大目 藤原朝臣家成」と云う同一人物である、と書かれているのです。その他にも、「日本で最も古いキリシタン墓碑は九州ではなく、河内飯盛城下で発見されている」「三好長慶幕下の武将七十三名が飯盛城で集団洗礼を受けたのである。この場所は、現在飯盛山頂にあるNHKのFM放送アンテナが立っているところである」等々、この地方に関する興味ある記事がたくさん記されています。野崎観音は隠れキリシタンの寺であった?らしい( 更なる詳細は、この本をご参考に)。
 この龍尾寺でウォークは解散となり、友人とJR四条畷駅まで戻り、電車で帰宅しました。

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 コース概略:JR四条畷駅(スタート)→四条畷学園北側→国道170号線(横断)→四条畷神社→住吉平田神社鳥居前→龍尾寺前(御机神社前)→四条畷福祉会なわて更正園→権現川ハイキングコース→楠公寺→桜池→大東市立青少年野外活動センター前(昼食)→桜池→尻池→杉むら峠→NHK・FM送信所(鉄塔)→飯盛山頂上(小楠公銅像)→展望台→飯盛城跡石垣巡り→楠公寺→権現川ハイキングコース→龍尾寺(解散)→四条畷神社二ノ鳥居前→JR四条畷駅(ゴール)。 本日の歩程 10.4km でした。

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