秋の木津川市公民館講座の案内募集があり、多種多様な講座や教室が発表されましたが、私が関心のあるのはアウトドア関連だけ。「初めての山登り」と「歴史散策」の2講座に申し込みました。応募者が多くて、山登りは昨年参加したこともあり落選、歴史散策の方だけが当選となりました。
★木津川市公民館講座 「歴史散策~宇治・山科#1」 10/9
昨年までは「奈良の飛鳥」が散策対象地区でしたが、今年から「京都の宇治・山科」に散策地区が変更となりました。仲のいい友人達も応募していたのですが、残念ながら落選となってしまいました。4回連続講座で、第1回目は宇治・平等院近くを散策します。幾度となく訪ねている宇治ですので、目新しい遺跡との出会いがあるかどうかはわかりませんが、講師の人から知らなかった話が聞けるのではと、楽しみです。
朝8時45分に公民館に集合、いつものように木津川市の専用バスで出発です。宇治の南方、太陽が丘球技場の裏手を走る道路の一角で降車、ここからウォーク・スタートです。
今日は、右に行ったり左に行ったりの散策なので、どこを歩いているのか分かりにくいので、宇治観光協会の宇治観光地図(部分抜粋)を掲げておきます。右下の金色院跡・白山神社付近からスタートして赤線枠の場所を巡ります。
宇治川の支流・白川沿いにある白川の里。ここに旧・白川金色院跡があります。神社の石灯篭に寺の山門の組合せは神仏習合の名残りです。現・白川神社・惣門は、旧・金色院の惣門(これは後の江戸時代に再建されたもの)だったものですが、金色院として唯一残っている遺跡です。
白川金色院は、平安時代後期の康和4年(1102)、関白・藤原頼通の娘で、第70代・後冷泉天皇の皇后であった藤原寛子(ふじわらかんし)が、平等院の奥の院として創建したと云われています。白川金色院創建の約20年後に建てられたのが、有名な奥州平泉の中尊寺・金色堂で、この金色院を模して作られたと云われています。しかし、白川金色院の方は、江戸中期までに殆どの僧坊は廃絶し、明治の廃仏稀釈で全ての坊が廃絶してしまいました。今は「此の付近 金色院」と云う石碑(左写真)だけが昔を偲ばせています。白川神社の一角にある九重石塔(重要文化財・写真右)は、藤原寛子の供養塔と云われています。
白山神社は、久安2年(1146)金色院の鎮守社として創建されました。本殿の祭神は伊邪那美命で、平安時代後期の木造座像を祀っています。写真の拝殿は、鎌倉時代に建造された茅葺屋根の珍しいもので、重要文化財に指定されています。
金色院跡から北西方面の地蔵院の境内を見学です。地蔵院は鎌倉時代に建てられた寺ですが、金色院にあった遺宝(仏像等)の多くが遷され、保管されました。ただ1991年に、重文の銅造阿しゅく如来立像、銅造釈迦如来坐像など3体が盗難に遭ってしまい、その他の仏像は奈良国立博物館に寄託され、ここでは見ることが出来ません。鐘楼の梵鐘に金色院の刻銘が僅かに残っていました。
見学後は、しばしウォーキングを楽しみながら宇治川に出てきました。天ヶ瀬吊橋で小休止です。この上流に関西電力・天ヶ瀬ダムがあり、更にさかのぼれば琵琶湖です。
今日は宇治川沿いに下流方向へと向かいます。中の島と朝霧橋が見えてきました。
宇治橋の手前は、中州になっていて、塔の島と橘島の2つからなり、総称して「中の島」と呼ばれ、宇治公園となっています。喜撰橋を渡り、上流側の塔の島にある十三重石塔の広場で昼食タイムとなりました。この塔は「浮島十三重石塔」と呼ばれ、日本で最も古く、かつ日本で一番高い(15.2m)石塔で、弘安7年(1284)奈良・西大寺の高僧・叡尊によって建てられ、重要文化財となっています。
昼食後は、下流側の橘島へ立ち寄りました。木曽義仲軍と源義経・範頼軍との戦いで、義経軍は、名馬「いけづき」に乗った佐々木四郎高綱と、名馬「するすみ」に乗った梶原源太景季が演じた有名な「宇治川先陣争い」の石碑があるので、見に行ったのですが、最近の宇治川公園改修の際にどこかに移転されてしまったようで、見ることが出来ませんでした。講師の先生が「こに在ったのに‥」と困惑されていました。朝霧橋を渡った対岸に、紫式部の「源氏物語・宇治十帖のモニュメント」があります。
宇治神社は、隣接する宇治上神社とは対をなしていて、明治以前は「下社」「若宮」と呼ばれ、宇治上神社は「上社」「本宮」と呼ばれました。両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称されましたが、明治になって宇治上神社とは分離されました。
こちらは宇治上神社。平成6年(1994)、日本で5番目の世界文化遺産「古都京都の文化財」として登録された中の一つです。ちなみに、京都の世界遺産は、建物が国宝であるもの、庭園が特別名勝に指定されているもの、だけで構成されています。国宝の仏像等があっても世界遺産とはなっていません。
宇治上神社には国宝建築物が2つもあります。その一つが 拝殿(国宝) です。鎌倉時代前期の建築物です。日本の建築物は木造なので、火災や腐食等のため、永年存続していること自体が非常に稀で、平安時代を含む以前の建築物なら まず国宝、鎌倉時代のものなら、モノによって国宝と重文とに分かれると、昔、教わったことがあります。
拝殿のうしろにある、宇治上神社の 本殿(国宝) は平安時代後期のものです。あいにく修復中で、今回は見ることができませんでした。私は過去に幾度も見ていますが、参加者の中にはこれを見たかった人も少なくないようでした、
源氏物語ミュージアム。館内は有料ですので今回は全員パスしてトイレ休憩だけです。さすがに庭園はムラサキシキブで植え尽くされていて、紫色の果実がいい雰囲気を作り出していました。
宇治川の右岸(北側)にある橋寺放生院。宇治川に架かる宇治橋を、この寺が管理していたことで「橋寺」と呼ばれています。推古天皇11年(603)に、聖徳太子の側近、秦河勝(はたのかわかつ)が宇治橋を架けた折に創建した寺と伝えられています。山門だけ見てUターンです。
再び朝霧橋を渡り、平等院に向かいます。林の向こうに平等院の鳳凰が金色に輝いているのが見えてきました。 <続く>
コメント
コメント一覧 (6)
言ういわれがあるそうです。
ここから京都まで大軍を率いていくためには
途中で略奪などしたのでしょうね。
コメント有難うございます。
宇治は世界遺産の町でもあり、各種イベント・ウォーキング企画も沢山あって、時々参加しています。今回は地元の顔見知りの皆さんと一緒でしたので、楽しめました。
コメント有難うございます。
義仲に限らず、どの武将も大軍を動かす際は、多かれ少なかれ略奪はあったと思います。木曽義仲はいい武将だったと思いまし、個人的にも好きな武将です。政治的に裏工作する策略家が、いつの時代も最後に勝ち残るというのが、なんとも残念です。
コメント有難うございます。
宇治上神社の本殿には、お気の毒にふられっぱなしだったのですね。
本殿の中の3つの社殿を一棟の覆屋で連結した特異な様式が、現存する最古の神社建築である事から、国宝&世界遺産となっていますが、本殿・拝殿とも、なんとも地味で、晴れやかさはありませんね。
昨日は久しぶりに、海住山寺越えで三上山に登り、森林公園・神童寺・桜峠を経て、加茂まで戻ってきました。歩程20km位でした。