★大坂の陣400年プロジェクト実行委員会・産経新聞社主催 「木村重成と大坂の陣戦跡コース」 2/15

 大坂冬の陣で初陣を飾り、夏の陣で散っていった豊臣軍・木村重成の陣屋跡や墓、徳川軍が首実検をした際に使用した床が天井板として現存する寺などを巡ります。

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 第二寝屋川の橋を渡った(八尾市側の)川畔にある幸町公園(木村公園とも呼ばれる)入口に建っている 「此附近 木村重成 奮戦地」 と書かれた石碑です。

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 公園の東側の一角にある 木村重成の墓 です。木村軍は早朝の戦いで、藤堂軍の先鋒、藤堂良勝、良重を討ち取り勝利しますが、今度は疲れた藤堂軍に代って元気のある井伊軍が攻めてきます。木村軍は先の藤堂軍との戦いで疲弊著しく、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めますが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴。敵陣へと突撃を開始し、井伊軍との激戦の末に戦死しました。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたと云われていますが、本当は、同家家臣庵原朝昌に討たれたが、朝昌がその功を重勝に譲ったとも云われています。この墓は明和2年(1765)、重成150回忌に当たって、重成を打ち取ったと云われる 安藤重勝 の子孫の 彦根藩士・安藤次輝 が建立したそうです。

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 大阪の陣ウォークでは、拠点ごとに定点ガイドさんが待機していて、説明してくれます。ここのガイドさんは女性でしたが、木村重成の面を付けて頑張っておられました。

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 綺麗に清掃された 木村重成の墓所。墓石には「長門守木村重成之墓」と刻まれています。左隣りには、重成と同じ日に戦死した重成の妹婿の山口弘定(左馬介)の墓も建てられています。木村重成は戦にあたり、頭髪をキレイに洗って香を焚きこめ、兜の緒はほどけぬように固く結んで緒の先端を切り落とし、「自分の手で再び兜を脱ぐことはないであろう」と決意を示し出陣していきました。重成の首実検をした家康は、「首にいささかの臭気もなく、香を焚きこめたのは勇士のよき嗜(たしな)みである。皆もここに来てその薫りを嗅いでみよ。また兜の緒の端を切り落としてあるのは討死にを覚悟した証拠、素晴らしい勇将である」と賞賛したと云われています。半年前の冬の陣の和議の際には、重成は豊臣の代表として使者に立ち、敵の諸大名が居並ぶ中、堂々と振る舞って驚かせただけでなく、家康の押した血判が薄いと言い放って、再度押し直しさせるなど、若くして豪胆なところを見せ、家康を感嘆させています。ちなみに、家康と秀忠は、真田幸村や後藤又兵衛などの勇将の首実検には立ち会わず、唯一、木村重成のみ立会ったそうです。重成をいかに重要な豊臣の直臣として認識していたかを示しています。この墓所にて、私もしばし重成に思いを馳せ瞑目です。

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 そのあと、橋を渡って東大阪市側に戻り、対岸にある徳川・井伊軍の山口重信の墓に立ち寄りました。山口重信は、自身の婚姻が徳川の命令に反したとして、領地を没収されてしまいます。しかし、翌年の大坂夏の陣には、旧領復活を願い、重政・重信父子は井伊直孝軍に従軍・参戦します。重信は前回に記しました木村軍の飯嶋三郎右衛門などを討ち取りますが、最後は木村軍に討ち取られ、26歳で戦死しました。戦後この武功により、父・重政、次男・弘隆などが徳川から新たに領地を付与されました。この墓は、弘隆が重信の33回忌に、山口家の名誉を回復してくれた感謝として、この地に建てたものです。今は墓石の損傷がひどく、崩壊防止の鉄柵に囲まれています。

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 再び八尾市に入り、河内街道を南下。ウォーク筋の神社などに立寄りながら、八尾北高校の傍にある 高塚地蔵 を訪ねました。関ヶ原の戦いの後、西軍・土佐の長宗我部盛親は、改易され浪人となりますが、1614年から始まる大坂の陣では、再起し大坂城に入ります。長宗我部氏の重臣・吉田重親(よしだしげちか=通称:内匠頭)も、一緒に大坂に入城し、翌年の大坂夏の陣における八尾・若江の戦いでは、増田盛次らとともに長宗我部軍の先鋒として出撃するも、兵数や装備不足により劣勢を強いられます。吉田はこの地蔵堂の陰から槍をもって飛び出し、藤堂高虎隊の家臣・藤堂家信に襲いかかりますが、返り討ちにされて、討死しました。

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 穴太(あのう)神社。大坂夏の陣では徳川方・藤堂軍の渡辺了(さとる、通称:勘兵衛)の陣所となったところです。渡辺は、「槍の勘兵衛」と称される槍の名手であったが、転々と主君を変え、大和郡山城の増田長盛(西軍)に仕え、関が原の戦いの時には、長盛が大阪城守備についたあとの郡山城を任されます。西軍が破れ、城主・増田長盛は所領を没収されて出家し、高野山に蟄居したにも関わらず、東軍の城接収役・藤堂高虎、本多正純らに 「主君長盛からの命で城を守っている。それ以外の命によって開城はできない」 と抵抗しました。その後、徳川家康らによって長盛に書状を書かせるまで、城を守り通し、無事に開城もすませました。その忠義と力量に仕官の誘いが相次ぎましたが、同郷の藤堂高虎に2万石の破格の待遇で迎えられて仕えました。そのため、大阪夏の陣では、長宗我部盛親や、前の主君・増田長盛の子、盛次などの西軍と激突、300余人を討ち取る活躍をしました。しかし、この活躍も独断専行甚だしく、7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃して得たもので、戦いには勝ったものの損害もまた大きく、高虎や他の重臣たちから疎まれる原因となり、戦後は出奔して浪人となってしまいました。

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 ウォーク最後の訪問地、近鉄・八尾駅近くの常光寺です。盆踊りでご存知の河内音頭の本拠地です。境内には河内最古之音頭発祥地(流し節正調河内音頭)の石碑が建っています。

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 徳川方の藤堂高虎がこの寺の縁側で、敵の長曽我部方戦死者の首実検を行いました。

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 常光寺血天井です。首実検した縁側(廊下)の板は、一面血の跡がしみついてしまい、のちにそのまま天井板に張りかえられて、今も保存されています。

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 境内裏には、八尾・若江の戦いで戦死した 藤堂家臣71士の墓 があります。前列の6基の五輪塔は、藤堂仁右衛門・山岡兵部など重臣6名の墓です。

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 八尾駅に戻る商店街の中にあった 河内音頭記念館 です。

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 商店街の入口左手に、八尾神社の文字が見えたので、寄ってみたら‥神社の境内に 八尾城跡の石碑 が建っていました。「イエズス会の報告では、戦国時代末期に八尾城は、織田信長の家臣となったキリシタン武将の池田丹後守教正の居城であった。その頃の城下にはキリシタンがいたという。その後、八尾城は廃城となったのか史料には見えない(ウィキペディアより)」。その後については、若江城を訪ねた折のブログに記しましたように、信長が大坂(石山)本願寺との戦いに勝ったあとの 天正9年(1581)には、河内にあったすべての城を廃城にしましたので、この時に一緒に廃城になったものと私は思います。これを最後に、近鉄・八尾駅に到着し、ゴールとしました。

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 コース概略は文中記載通りで省略。本日の歩程 7.8km でした。近鉄難波線・若江岩田駅から近鉄大阪線・八尾駅まで河内の中心地を縦断した歴史ウォーキングでした。