★大坂の陣400年プロジェクト実行委員会・産経新聞社主催 「真田幸村と大坂の陣戦跡コース」  2/22

 日本一の兵(ひのもといちの つわもの) と呼ばれた真田幸村が、大坂の陣の際に戦勝祈願をしたとされる神社や、地雷をしかけた場所、徳川軍ゆかりの寺などを巡ります。

 真田幸村 : 関が原の戦いでは、兄(信行)と袂を分かち、父(昌幸)と共に西軍に加勢するも、敗戦で浪人となり、九度山で困窮の生活を送る。そうした窮状から救い出し、再び武士の誇りを持たせてくれたのが豊臣秀頼で、慶長19年(1614)10月頃に大坂城に入ります。幸村は、大坂城の弱点は城の南方であると見破り、ここに「真田丸」という出城を構築します。そして、冬の陣での「真田丸の戦い」では、幸村は徳川方の大軍に大打撃を与え、徳川勢はおびただしい死傷者を出して撤退に至ります。幸村を甘く見ていた家康は、冬の陣の和議後、幸村に大封を与えることを条件に寝返りを促しますが、秀頼の恩義に報いるため、幸村は断ります。家康は次の戦いを想定し、大坂城の堀を埋め、真田丸を徹底的に破壊してしまいます。大坂の陣では、豊臣方にはリーダーシップを取れる大将がおらず、幸村の提言も城内の重臣たちに受け入れられず、野戦も連携作戦がかみあわず、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただ一つ」と、真っ正面から家康本陣に狙いを定めて突撃を三度も敢行、徳川勢は総崩れとなり、家康は自害を二度も覚悟したほどだったと云われます。しかし多勢に無勢、次第に追い詰められ、傷ついた身体を休めていたところを、敵兵に発見され、「わしの首をとって手柄にされよ」と述べて、潔く討ち取られていきました(享年49歳)。

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 大坂の陣で家康本陣に突撃する真田幸村の図 (写真の錦絵は、2015.2.6付産経新聞夕刊に掲載されたもので、四代目旭堂南陵氏が所有する明治・大正時代に出版された講談社本の挿絵です)。真田幸村は、真田信繁(のぶしげ)が正しい名前ですが、死後、寛文12年(1672)に世に出た軍記物語『難波戦記』に「幸村」としての名が初めて記され、以後、急速に幸村と呼ばれるようになりました。

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 本日は前回のゴール地点であった近鉄・八尾駅から、午前9時20分にスタートしました。

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 前回訪ねた常光寺に再び立ち寄り、八尾天満宮を経て、大信寺です。境内に河内県庁跡の石碑が建てられています。明治維新の廃藩置県の際には、色々な県が作られては合併したり分裂したりと紆余曲折を繰り返します。河内県は明治2年に設置されるも、僅か8ヵ月後には堺県に編入されると云う短い命でした。

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 長瀬川を渡り、久宝寺・寺内町の一角にあるのが、長宗我部物見の松です。久宝寺や八尾では、豊臣方・長宗我部盛親軍と徳川方・藤堂高虎軍が対峙し、久宝寺に陣を張った長宗我部軍が天高く伸びる老松に登って、八尾にいた藤堂軍の動静を探ったと伝えられています。戦いは長宗我部軍が優勢だったのですが、若江で木村重成軍が敗れると、長宗我部盛親は前線を退避してしまいます。翌日の天王寺での決戦にも参加せず、大坂城の守備につきますが、天王寺での豊臣方の敗北を知り、お家再興を図って逃亡するも、捕らえられ斬首されました。どうも長宗我部盛親と云う武将は、関が原でも全く戦わず、お家と自分の安全ばかりを考えていたようです。当時の松は今はなく、これは近年植えられた松です。

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 顕証寺、許麻(こま)神社を過ぎ、JR大和路線(関西線)久宝寺駅を横切り‥

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 八尾の常光寺とは兄弟寺(臨済宗南禅寺派)の、真観寺と云う寺に立ち寄りました。夏の陣で当時の伽藍は焼失してしまいましたが、境内にある 三好長慶の墓(中央)と、その甥の義継の墓(左)です。義継は長慶の死後、三好家の家督を継ぎ、元亀3年(1572)、松永久秀と共に織田信長に反逆し、足利義昭を河内の若江城にかくまいますが、翌年の天正元年(1573)、信長方の佐久間信盛に攻められて、自害しました。

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 八尾市竹渕西にある「馬洗池跡の由来」という石碑。このあたりには竹藪や池が多く、大坂冬の陣で徳川家康軍の兵馬を洗い、水を飲ませた池があったと伝えられています。今は池の面影もなく、民家の前に石碑だけが建っていました。

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 平野川沿いに歩き、大阪市平野区へと出てきました。平野公園の一角に 平野郷樋尻口門(ひのしりぐちもん)跡 の石碑があります。道明寺の戦いに敗れた真田幸村軍は、大坂城へ向けて退却しますが、進軍する家康は平野で休息をとると予測した幸村は、樋尻口の地蔵堂に地雷を仕掛けます。案の定、家康が現れ、地雷が爆発しますが、家康は小便でその場を離れた瞬間で、九死に一生を得たと云われています。

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 平野郷樋尻口門の斜め向かいに、徳川方・安藤次右衛門尉正次の墓(右は墓の刻銘)がありました。夏の陣では、御旗奉行として徳川秀忠に属する。5月7日大坂城落城の直前に、秀忠の使者として、前田利常・本多康紀の両軍に、敵陣への攻撃を伝えに行きます。しかし、その時に数騎の敵と遭遇し、単身で戦い敵方の首級を挙げたが、自らも深傷を負って家臣に助けられ本陣に戻り、秀忠から賞賛される。宿所の平野郷願正寺にて傷の療養に努めるも、再起不能を悟り、19日自害しました。

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 安藤が療養したと云われる願正寺に寄ったあと、全興寺を訪ねました。このお寺には「平野区ウォーク巡り」で何度も来ています。地獄や極楽の世界が見られる展示室があり、また駄菓子屋博物館なども設置されている、ユニークなお寺です。幸村が樋尻口の地蔵堂で仕掛けた地雷により、地蔵尊の首だけが、ここ全興寺の境内へ飛んできた・・・家康身代わりの「首の地蔵尊」として伝わっていますが、特定の時期しか公開されておらず、本日は見ることは出来ませんでした。

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 杭全(くまた)神社では、個人的に色々の狛犬鑑賞をして‥

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 大阪府下最大の木造建築物である、大念仏寺の本堂前で一服です。左の建物は年に1回だけ公開される幽霊画で有名な、瑞祥閣(幽霊博物館)です。幽霊画は → こちら

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 大阪地下鉄・平野駅へ出て、電車で3つ先の長原駅まで移動です。長原駅から数百m歩くと、真田幸村休憩所跡です。門扉には真田の六文銭が施されています。

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 扉を開けて中に入ると、休憩所跡には自然石が建てられていました。

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 中河内郡誌によれば、「幸村は伊達政宗との戦い(道明寺の戦い)中に、大坂城より退却命令を受け、天王寺・茶臼山に退くことになったが、この途中、戦勝を 日蔭神社(現・志紀長吉神社) に祈願せし時、神社の馬場にて休息せりと伝う。この時、麻地六文銭紋章の旗及び刀剣を当社へ寄進せり」 と記されています。幸村が奉納した刀剣は、終戦後に没収されたとのことですが、誰がどこに持って行ったのかは知ることが出来ませんでした。六文銭軍旗は、今もこの神社の社宝となっています。幸村は翌日(大坂落城の前日)、天王寺茶臼山にて徳川方・松平忠直軍との奮戦の末に亡くなりました。志紀長吉神社から地下鉄・長原駅に戻り、ゴールとなりました。

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 コース概略:本文記述通りで省略。本日の歩程 12.5km でした(平野・長原間、地下鉄移動)。

 何か幸村のタイトルが薄らぐような、消化不良のウォーキングでした。地下鉄で天王寺まで行き、下車して、個人的に更に幸村の遺跡を訪ねることにしました。 <続く>