★個人ウォーク 「天王寺・茶臼山 と 幸村終焉の地・安居神社を訪ねる」 2/22

 地下鉄・長原駅にて幸村ウォークは終了という、中途半端な終わり方でしたので、個人的に天王寺で下車して、その続きとなる 夏の陣・最後の壮絶な戦いとなった天王寺・茶臼山一帯を、一人で歩いてみることにしました。

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 JR天王寺駅西口から見た阿倍野ハルカスです。

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 天王寺公園や天王寺動物園の北側一帯の小高い丘が、大阪市内でも最大級の前方後円墳である茶臼山古墳で、一般には単に 茶臼山 と呼ばれています。

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 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、茶臼山一帯は徳川家康の本陣となりましたが、翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となって、「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となりました。

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 慶長20年(1615)5月7日の 茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)布陣図。豊臣方は真田幸村軍、毛利勝永軍が、徳川方は本多忠朝、越前勢の松平忠直、真田信吉・信政兄弟(徳川方についた幸村の兄・信行の子)などを先鋒とする家康各軍が対峙し、激突となりました。

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 茶臼山の頂上。頂上を示す標識や説明板などは特に何もありません。幸村はこの陣所から徳川家康の本営めがけて三度も突進し、家康の馬印(うまじるし=本陣の旗)を引き倒します。家康にとって馬印が倒されたのは、生涯で「三方ヶ原の戦」の武田戦と、この真田戦の二度だけです。踏み倒された馬印を見て「真田にこの首は取らせぬ」と家康は腹を切ろうとしますが、側近たちに止められ、馬に乗せられ三里(12km)も逃げたと伝えられています。家康をあと一歩のところまで攻め込みながら、首を討ち取ることが出来なかった幸村軍は、圧倒的多数の徳川軍にジワジワと追い詰められていきます。

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 茶臼山北側にある 一心寺・南門 に向かいます。向こうから通天閣が顔を見せています。

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 一心寺の墓地の中に、「真田の抜け穴」と云われる井戸跡が残されています。真田の抜け穴跡はここ以外にも幾つかあります。

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 一心寺にある徳川方・本多忠朝(ただとも)の墓。忠朝は深酒のため二日酔いで5月6日の戦闘に遅参したため、家康にひどく叱責されます。翌5月7日の天王寺口の戦いで、先鋒となった忠朝軍は毛利勝永軍と激突しますが、毛利軍に突き崩され、本多軍は敗走、前日の汚名を晴らそうとした忠朝は大いに怒り、単騎で敵陣へ斬り込みますが、数十箇所の傷を負って戦死を遂げました。忠朝は死に臨んで、深酒をしたことを悔い「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言って絶命したと云われ、このため、墓は「酒封じの神」とか「断酒祈願の墓」として参拝する人が絶えません。

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 一心寺・仁王門(北門)の向かい側(北側)、国道25号線を挟んで 安居神社(安居天満宮) の南口があります。社標の傍らに「真田幸村戦没地」の石碑が建っています。

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 都会の真ん中にあることを感じさせない静かなたたずまいの 安居神社の拝殿。ここの狛犬が仲々の絶品でした。いわゆる江戸後期の”丹波の佐吉”などに代表される浪速型狛犬とは異なる、杭全(くまた)型狛犬と呼ばれる古いタイプのものです(小寺慶昭著『大阪狛犬の謎』より)。この狛犬については、機会があればいつか取り上げたいと思います。

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 拝殿に向かって右手に建つ、真田幸村公之像 と 真田幸村戦死跡之碑 です。真田の赤備えにちなんでなのか、幸村の像も全身赤銅色です。

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 横から見た幸村の姿。うしろの松が「さなだ松」と呼ばれ、戦闘で疲弊した幸村が、このような姿で、安居神社のこの松に寄りかかって休んでいました(現在の松は二代目)。その時に、徳川方の越前松平隊・西尾仁左衛門宗次に見つかります。既に疲れ果てていた幸村は 「自分の首と秀頼様からいただいた采配を添えて高名にせよ」 といって、戦わずして、潔く首を差し出したと云われています。
 西尾が討ち取ったことには後日談が色々あります。家康の面前で幸村を討ち取った時のことを話せと言われて、西尾はその時のことについて何も答えられなかったとか、逆に、大誇張して槍を数回、合わせたあと討ち取ったと大ウソをつき、家康に見破られ大喝されたとか、そもそも西尾は、その時には幸村ということさえ知らず、アトから知らされたとも云われています。家康は「幸村が西尾ごときに易々と討たれるはずがない。おそらく、拾い首同様に手に入れたのであろう」と言ったと 『武功雑記』 は伝えていますし、細川忠興も、国許の家臣に送った書状に「拾い首だったため手柄にもならなかった」と伝えています。

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 幸村を慕う人は今も数多くおられます。特に信州・上田市の人々と安居神社との交流は深く、毎年5月7日(幸村の命日)に近い日曜日に行われる「幸村祭」には、赤備えの甲冑姿で参加されていますし、境内には上田市から贈られたソメイヨシノも植樹されています。来年の大河ドラマが「真田丸」と決まり、上田市が制作したポスターが神社にも貼られていました。真田丸とは、大坂城の南方に幸村が築いた出城のことです。

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 安居神社に掲げられていた真田十勇士の絵です。幸村に仕えたと云われる十勇士は、伝承上の架空の人物ですが、一部歴史的な由来を持つ人物も入っているようです。大河ドラマでは、十勇士が出てくるのかどうかも気になるところです。幸村役は堺雅人さんです。

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 付記 : 大坂冬の陣で真田幸村が陣を敷いた 真田丸(偃月城=えんげつじょう)の跡地に、玉造・三光神社があります。境内には「真田の抜穴跡」が残っていますし、冬の陣で家康軍を蹴散らした時の、幸村の采配姿の銅像が建てられています(これは6年前に撮った写真)。台座は信州上田、真田家の菩提寺の長谷寺より、取り出した真田石が使われています。

 ”‥冬の陣はともかく、夏の陣は最初から、到底勝てない戦(いくさ)であったが、淀君や秀頼の衿持(きょうじ=プライド)が強いのと 幸村、盛親、(後藤)基次、(塙)直之などが、いずれも剛直の士で、徳川の世に生きて、かがまっているよりも、一死を潔(いさ)ぎよくしようと思っている連中ばかりなので、到頭不利な戦争をやりとげたものであろう。その上 諸浪人なども、戦国時代生き残りだけに気がつよく、みんな元気がよかったのであろう。それに比べると、徳川方の連中は、金持喧嘩せずの方で、家康への義理戦で、打算戦であるだけに、大阪方の勇名ばかりが残ることになったのだろう。長曾我部盛親だけが大名格で、後は前に書いたように陪臣級である。それにしては、よく戦ったものである。大阪陣の文献は、みんな徳川時代に出来たものであるにも拘わらず、大阪方の戦死者は、賞(ほ)めちぎられているのは、幸村、盛親、基次、重成など、典型的な武人として、当時の人心を感動せしめた為であろう。幸村、基次、重成などの名前が、今でも児童走卒にも伝っているのは、後世の批判が公正な事を示していて、うれしい事である。こう云う名前は、映画や大衆小説の俄(にわか)作りの英雄豪傑とは又別に、百世に伝えたいものである。大阪城の勇士の事を思うと、人は一代 名は末代  と言う格言を素直に肯定出来る” 
と、菊池寛は著書「日本合戦譚」に記しています。