★大坂の陣400年プロジェクト実行委員会・産経新聞社主催 「後藤又兵衛と大坂の陣戦跡コース」 3/1

 大坂夏の陣の最激戦地の一つであった道明寺の戦いの記念碑や、小松山の戦いで敗れた後藤又兵衛の碑、真田幸村と伊達政宗が戦った地などを巡ります。

 後藤又兵衛基次 : 後藤又兵衛は、慶長の役(第二次朝鮮出兵)や関ヶ原の戦いなどで武功をあげ、黒田長政から筑前・大隅の城を預けられ、1万6千石を領した。しかし、黒田と仲の悪かった細川忠興と又兵衛は通じていると長政に疑われ、次第に長政との折り合いが悪くなり、黒田家を出奔する。しかも、長政が行った嫌味な奉公構(ほうこうかまえ)により、他藩に仕えることも出来ず、浪々の身となる。奉公構とは、大名が出奔した家臣等について、他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すこと。やがて又兵衛は豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入る。家康は、又兵衛の武将としての能力を高く評価し恐れていたため、長政を説き伏せ、黒田家への帰参を取り付けるが、又兵衛は応じず。更に徳川は又兵衛の次子・左門を人質に取り又兵衛に圧力をかけるが、左門は自分が捕らわれていると、父・又兵衛の決断を狂わせるとして自尽する。夏の陣の「道明寺の戦い」では、味方との連携作戦がかみ合わず、小松山で10倍以上の徳川軍に対し、孤軍奮戦するも、鉄砲で身体を射抜かれて落馬、家臣に首を取られぬよう命じ、介錯されて戦死した(享年56歳)。

Gotou06a

 玉手山ふれあいパーク・歴史館に飾られていた後藤又兵衛の画像(原画は福岡市博物館蔵の「黒田二十四騎画帖」に収められている又兵衛です)。

Gotou07

 本日は朝から雨でしたが、大坂の陣400年プロジェクトのHPには中止の掲載も見当たらず、あわててJRに飛び乗り、高井田駅で下車。目の前の大和川・国豊橋を渡ると、スタート地点の近鉄・国分駅です。9時半からの受付でしたが、もう受付は始まっていたので、地図を貰って9時15分にウォーク・スタートしました。片山神社などに立寄りながら、アップダウンの激しい山道を登ると、玉手山1号古墳です。玉手山丘陵一帯は、大坂夏の陣(1615)の古戦場であるとともに、古墳時代前期(4世紀)の古墳群もあります。大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されていて、この1号墳がある最北端地が、いわゆる「小松山」と呼ばれた夏の陣の激戦となった所です。又兵衛が小松山まで進出したところで戦闘が始まり。徳川方・水野隊の先鋒となった大和の武将で南都奉行であった奥田三郎右衛門忠次が、真っ先に小松山に登ってきますが、又兵衛に討ち取られてしまいます。小松山頂上には、この奥田と家臣5名の墓が建てられています。

Gotou08

 小松山から見た大和川。徳川軍は大和方面からこの国分を経て大坂に向かおうとしていました。又兵衛は前日(5月5日)に真田幸村らと会合、6日を期して道明寺で合流し、国分において徳川方を迎え撃つ作戦をたてます。同日夜、又兵衛は軍勢を率いて、一足先に平野を進発。奈良街道を東進し、6日未明、藤井寺に到着するが、他の後続諸隊は濃霧のため予定通り到着できずにいた。しかも、この時すでに徳川方は国分に入ってしまっていて、戦機を逸すると感じた又兵衛は、後続の諸隊を待つことなく、石川を渡り、当初の作戦通り小松山を占領します。午前4時頃、後藤隊の先頭は、山を下って徳川方の諸隊と激突、攻め登って来る徳川方とのあいだで激戦となりました。

Gotou09

 小松山の戦い(国分・道明寺の戦い)の布陣図 を見てもわかりますように、豊臣方(幸村と又兵衛)は、大軍の徳川勢と戦うには、大和川の狭隘なこの地で迎え撃つ作戦を立てます。徳川方は、水野勝成隊(3800)、本多忠政隊(5000)、松平忠明隊(3800)、伊達政宗隊(10000)の合計23000もの大兵力です。初めは優勢だった後藤隊(2800)も、後続の支援が得られず衆寡敵せず、次第に圧倒されて三方から包囲された形になり、又兵衛は戦死、後藤隊も壊滅してしまいます。時に6日午前10-12時頃で、激闘実に6-8時間に及びました。河内鑑名所記には 「軍兵大勢討死。大坂方は猶もって大勢打死。この三村(円明村、玉手村、片山村)の地、あき間もなきほど死体ありける」と当時の状況を記しています。

Gotou10

 玉手山7号古墳の後円部頂にある 大坂の陣・両軍供養塔 です。両軍の大勢の戦死者を弔うため、近くの安福寺の珂憶(かおく)上人が建立しました。

Gotou11

 玉手山にある 後藤又兵衛基次之碑。この地から北西1kmの片山で自害したと云われています。

Gotou12

 後藤又兵衛基次之碑の表面(左)と裏面(右)。両面ともに作家・今東光の揮毫です。
後藤隊は最後の戦いをしようと、西に下って平地(片山)に出ると隊を二つに分け、徳川軍に突撃を開始した。決死の覚悟の後藤隊は敵の1~2隊は打ち破ったものの、丹羽氏信軍に側面を攻撃され乱れる。分断された後藤隊先鋒は隊伍を整えようとするが、伊達政宗軍の数千もの鉄砲隊の射撃で壊滅してしまう。又兵衛自身も兵を収めようと先頭に立ったとき、伊達軍の鉄砲隊に胸を撃たれて落馬。近くにいた吉村武右衛門(一説には金方某之とも)が助け起こそうとするが、死を覚悟してこの戦いに挑んだ又兵衛は逃げる気はなく「首を決して敵に渡すな」と命じ自害、吉村は介錯して又兵衛の首を刎ねると、陣羽織に包み、泥田の中に埋めて隠します。

Gotou13

 後藤又兵衛之碑の隣に立つ、介錯をしたと云われる吉村武右衛門之碑。

Gotou14

 玉手山を下り、石川の玉手橋を渡ります。石川の東側地区、小松山・玉手山・国分などがあるのが柏原市、石川の西側地区が藤井寺市・羽曳野市となります。玉手橋は、大坂鉄道(現・近鉄)が道明寺駅から玉手山公園に行くために架けた、全国的にも珍しい5径間の吊り橋で、平成13年に文化庁から登録有形文化財(建造物)に指定されました。
 後藤軍を破った徳川軍は、石川を渡り、道明寺方面に進撃。豊臣方として遅れて到着した薄田隼人や明石全登が迎え討つも、徳川軍の勢いは止まらず、薄田は討死。崩れかけた豊臣軍を真田幸村が必死に立て直し、伊達政宗軍と膠着状態になります。そこへ若江・八尾の戦いで木村重成の戦死の知らせが届くと、豊臣方・毛利勝永は戦の舞台を道明寺から天王寺へと移すべく全軍を後退させます。殿軍(しんがり)を努めた幸村は、「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」 と徳川軍を嘲笑しながら悠然と立ち去った、と伝えられています。

Gotou15

 藤井寺市から南下し、羽曳野市へ入り誉田(こんだ)地区に建つ豊臣方・薄田隼人正兼相の墓。薄田は道明寺の戦いの際、誉田八幡宮付近に陣を構えていたが、濃霧のため後藤又兵衛や真田幸村、毛利勝永軍らと合流できず、10万の徳川軍に撃破されて、ここで討死にしたと云われる。後に 岩見重太郎 として伝説化されたほどの剛勇の士であっただけに、又兵衛の支援に遅れたのが悔やまれます。

Gotou16

 誉田八幡宮に到着。日本最古の八幡宮で、応神天皇を祀り、御稜祭祀を司ってきた神社です

Gotou17

 誉田八幡宮の本殿(左)と、境内にある誉田林古戦場の石碑。南北朝時代から戦国時代にかけて、この神社周辺はしばしば戦場となり兵火をこうむる。大坂夏の陣では豊臣方・薄田隼人がここに陣を構えました。

Gotou18

 応神天皇陵。 とにかく大きいです。誉田御廟山古墳(応神天皇陵)は墳丘長425mで、堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ全国第2位の墳丘長です。また、古墳の表面積や体積では、大仙古墳を上回り全国一の巨大古墳です。

Gotou19
 小室山古墳 など幾つかの点在する古墳群を巡ります。

Gotou20

 雨は最後まで止まず、弁当を食べることも出来ず、12時30分、ゴールの道明寺天満宮に到着です。

Gotou21

 天満宮でゴール・チェック後、そのまま近鉄・道明寺駅まで歩いて、私のウォーク・ゴールとしました。道明寺駅の横に建てられている 大坂夏の陣・道明寺合戦記念碑 です。

Gotou_map

 コース概略:地名は省略。本日の歩程(JR高井田駅~近鉄・道明寺駅)は 11.5km でした。