★徳川家康は後藤又兵衛に殺された? 

 ここでは、前回のウォークの関連として、後藤又兵衛と徳川家康の死について記してみたいと思います。徳川家康は、夏の陣にて又兵衛に槍で突かれて殺されたと云う伝説はかなり根強いものがあります。

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 大坂の陣で家康を槍で仕留める後藤又兵衛の図 (写真の錦絵は、2015.2.6付産経新聞夕刊に掲載されたもので、四代目旭堂南陵氏が所有する明治・大正時代に出版された講談社本の挿絵です)。真田幸村により家康の本陣が突き崩され、逃げ回る家康が後藤又兵衛に討たれたとする伝説に基づく絵画です。
 家康は真田幸村の突撃から逃れると、駕籠へと乗り継ぎ、堺に向けて遁走するも、その駕籠が怪しいと睨んだ後藤又兵衛が駕籠の上から槍を突き刺します。確かな手ごたえを得るも、駕籠は必死で敵を振り切り、堺の南宋寺に逃げ込みます。すぐに駕籠の中が開けられると、既に家康は絶命していた‥と云われています。

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 家康が逃げ込んだと云われる 大阪・堺・南宗寺の徳川家康の墓所 です(何年か前に訪れたときの写真です)。17世紀中頃に建てられたとみられる唐門には、徳川家の葵の紋が取り付けられ、瓦にも葵紋が入っています。墓所一帯は、壁に囲まれ綺麗に保たれていて、しっかり管理されています。

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 唐門の格子戸の隙間から覗いた徳川家康の墓。この場所は、戦前までは堺東照宮が建てられていましたが、戦災で焼けてしまったので、戦後、新たに墓が作られました。「(家康が)大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ、駕籠で逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれた。辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」と、南宗寺史 は伝えています。

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 祠の中には 家康の墓石 が建てられており、徳川の三つ葉葵紋 が掛けられています。

 家康が大坂の陣で殺されたなんて、ウソやろ? と思われるかも知れませんが、ご存知のように大坂の陣の頃には、将軍職は家康から既に秀忠に移っており、家康の死は極秘に処理されたとしても不思議ではありません。大坂の陣で共に本営に入っていた秀忠こそ全てを承知していたはずで、本来なら一日も早く堺の南宗寺に詣でたかったが、戦いの最中に家康の戦死がわかると大混乱することは避けられず、以後、影武者をたてて生存をカムフラージュしたことは十分に考えられることです。また、殺されたのが影武者の方だったのではないかと云う説もありますが、影武者であったなら、天下泰平となった大坂の陣のあとに、家康の子(二代将軍・秀忠)や孫(三代将軍・家光)が、堺に墓参に来ていること自体、おかしな事と云わざるを得ません。家康の遺骨は、この時に久能山東照宮に持ち帰られ、その後、日光東照宮に遷されたのかもしれません。家康は、1616年4月に75歳で亡くなっています。1615年5月の大坂夏の陣のあと、1年も経っていません。高齢だったとしてもタイミングがよすぎます。幕府としては、世の中も落ち着いたので、早い時期に終止符をうった(影武者を処理した)のではないでしょうか。また、家康の死因は「鯛の天麩羅を食べすぎて死んだ」という通説もあって、この話など、将軍は必ず毒見役が食べた安全なものしか食べないとされた時代に、それこそ天下の家康の最後としては奇妙な死因であったと言わざるを得ず、とても信憑性があるとは思われません。

 ところで、南宗寺史や通説にあるような、槍で突いたとされる後藤又兵衛は、家康を討つ前に、小松山で戦死していますので、又兵衛が殺したと云うのはデッチ上げでしょう。又兵衛を英雄に祭り上げたい庶民の願望のあらわれ、あるいは、家康が名もわからぬ雑兵に殺されたとあっては徳川の面子にも関わるので又兵衛を持ち上げた、のかもしれません。いずれにしても、豊臣方の誰かに殺された可能性は否定できません。

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 日光東照宮に保存されている徳川家康の 網代駕籠 です。駕籠の上にあいた丸い穴が、又兵衛が馬上から突いた槍の跡とも言われています。このように疵付いた駕籠が特別に残されていること自体、あるいは先述しましたように、秀忠や家光がわざわざ江戸より堺の南宗寺を訪ねていること等からしても、「家康は夏の陣で殺された」とするのは、まんざら嘘ではすまされないようです。

★後藤又兵衛 余談

 後藤又兵衛の武功については色々ありますが、関ヶ原の戦いでは、黒田長政に従い東軍方として、石田三成軍の剛槍使い・大橋掃部を一騎討ちで破るなどの戦功を挙げ、また、大坂の陣では豊臣方につき、大坂城五人衆の一人として活躍します。冬の陣では6千人の遊軍を任され、鴫野・今福方面で佐竹義宣軍と交戦していた木村重成軍が劣勢となるや、ただちに救援に駆けつけ佐竹軍を追い返し、戦巧者の又兵衛らしい、鮮やかな用兵を駆使しています。木村重成は、又兵衛を最も尊敬していたそうです。

 夏の陣で戦死したはずの又兵衛ですが、各地には生存説が色々残っています。これは源義経以来、悲劇のヒーローを死なせたくない日本の国民性なのでしょうが、一方では、桜のように潔(いさぎよ)く散っていく美徳も日本の国民性であります。大坂の陣において、少なくとも豊臣方に味方した数々の武将は、地位や財産など二の次であったからこそ、負け戦と分かっていても、戦国武士としての正義感に基づいて豊臣方に参集しました。真田幸村や後藤又兵衛らには、幾度も徳川方から破格の報酬と引き換えに寝返り話が持ちかけられますが、頑として首を縦に振らなかった男達なのです。又兵衛は、夏の陣の前夜、家康から「味方につけば播磨一国50万石を差し上げる」と誘われますが、「徳川方の軍勢が手弱ならともかく、そちらは日の出の勢いである。一方、大坂方は落城も十日ほどに迫っている。この情勢の中で優勢なほうについて心変わりすることは、武士にあるまじきこと」と言って断っています。「助力を頼まれている方は太閤殿下の子息であるし、また味方をすれば大国を賜ると言われたのは天下に並ぶなき駿河・江戸のご両所(家康・秀忠)である。又兵衛一人にこのように期待をかけられ、自分は日本国中で一番の果報者である。そのご恩に報いるためには、戦いが始まったなら、一日も早く討ち死にすることであろう」と言っています。そんな又兵衛が、戦いのあと密かに生き延びて余生を過ごしたなど、絶対に有り得ない話です。

 小松山の戦いで戦死し、泥田の中に埋められた又兵衛の首は、生き延びた吉村武右衛門が戦後に掘り出して、又兵衛の伯父である藤岡九兵衛が住職を務めていた伊予国の長泉寺に届けて埋葬したと、「伊予古跡誌」には記されていて、今も長泉寺及びその周辺に又兵衛の墓や遺跡が残っています。

 また、又兵衛の妻(後妻:三浦四兵衛女)は、又兵衛が戦死したあと、遺髪を胸に納め、一子為勝(当時2才)を連れて備前岡山の実家・三浦家に身を寄せますが、備前岡山藩城主・池田光仲は因伯二州(鳥取藩)へ領地替えとなり、光仲の家臣・三浦家も鳥取へ移住、一緒に後藤家も鳥取へ移り住み、景福寺を後藤家の菩提所として、当墓地内に又兵衛の遺髪を埋葬しました。景福寺並びに又兵衛の墓については、こちらをご覧ください。 → 「こん近さまのblog」