暖かくなってきて、各種ウォークへの参加等で外出が増えて、仲々ブログ作成の時間がとれなくなってきました。春の植物写真やウォーキング記録は溜まる一方で、幾つかはお蔵入りも いたしかたない状況です。ただ狛犬などは、季節性もなく、ボツにする必要もありませんので、遅ればせながらも、合間合間に少しづつ取り上げて行きたいと思います。”丹波の佐吉” の第7弾です。
★川西町・八幡神社
大和川流域の奈良県磯城郡川西町にある八幡神社を訪ねました。佐吉が奈良・大宇陀平井で四国八十八ヶ所霊場・石仏制作と云う大仕事にかかわった、嘉永から安政年間に掛けての江戸時代後期は、全国的にも大旱魃、大地震、飢餓に襲われ、政治的にも安政の大獄が行われるなど世情は大混乱をきたしました。川の流域にある神社には、風雨を鎮め、水難を防ぎ水を治める神を祀り、その神徳を乞うべく村人は、貧しい中から僅かなお金を出し合って、獅子・狛犬を奉献してきたのです。佐吉の狛犬を訪ねると、大和の名もなき小さな村のために、渾身を込めて狛犬制作に取り組んだのは、幼少より極貧の中で必死に生きてきた佐吉の心と相通じるものがあったからなのでしょう。
八幡神社への参道口です。自然樹木を利用した注連柱のようでしたが、勧請縄のようにも見えました。殆ど地元の人しか訪れない神社のようで、いい雰囲気が感じられました。
参道の突き当たりにある八幡神社の石鳥居です。この神社の裏手は大和川の堤防です。
八幡神社拝殿前に見られた佐吉の狛犬です。
端正で彫りの深い「奉献」の文字は、それだけで佐吉とわかるものです。勿論、台座の上の狛犬の見事さは云うまでもありません。遠くから見てもいい顔をしていて、惚れ惚れします。
胸前から、僅かに湾曲した前足にかけての素晴らしい造形は、佐吉らしさの一つです。
縦書きの「大坂住 石工 佐吉」と、横書きの「照信 花押」の二種の刻銘が確認出来ました。
阿形の顔二態。もう何も言う事はありません。身体に付いたゴミを払ってやり、頭をナデナデしながら、ひたすら見惚れていました。この佐吉の狛犬は余り損傷も見られず、比較的良好に保存されていたのが、これまた嬉しい限りでした。
コメント
コメント一覧 (6)
細工をするのはさすがですね。
丹波の佐吉という方は丹波出身でしょうね。そしたらこちらでも彼の狛犬を見る機会濃厚ですね。特徴ある狛犬なので一目見て分かりそうですから、これから注意を払うことにします。
これまでの貴Blogを拝読していないのに、質問は恐縮ですが・・・(^^;)
Bell3さんは、
① ”丹波の佐吉”の狛犬が、どこの神社にあるのか、把握されているのですか?
② 大坂住・・・となっていますが、この狛犬を制作した時は 大坂住人だったのでしょうか?時間がある時に、過去の第1回-第6回を拝読いたしますv(^^)
コメント有難うございます。
今の石細工は殆どが機械彫りで、細かい表現も出来るようですが、綺麗さだけが先立っていますね。それに比べて、ノミと金槌だけの手彫りは、石工の特徴や好み、クセなどが感じられて、個性的で、より芸術的ですね。
コメント有難うございます。
丹波の佐吉の呼称通り、生まれは丹波ですが、兵庫県にはごく少数しか石造物は残っていません。以前に書いたかもしれませんが、特に狛犬は丹波市にある柏原八幡神社だけにしか確認されていません。
コメント有難うございます。
関西では、意外と”丹波の佐吉”ファンが多いです。佐吉の書物も幾つか出版されていますが、本は持っていません。ただ佐吉の狛犬、石仏、石灯篭などの石造物一覧リストや佐吉に関して発表された小論文(コピー)などの資料は持っていて、それらの情報を参考にしています。
佐吉は丹波の生まれですが、幼くして両親をなくし、5歳の頃に石工・難波金兵衛の養子となり、23歳の時に金兵衛のもとを飛び出し、ワタリの石工となり、やがて泉州の石工屋でわらじを脱ぎ、同業者の技比べで「石の尺八」を作って見せ その見事な出来に 時の孝明天皇から「日本一」との賞賛を賜ります。以後、各地からの制作依頼が殺到します。今に残る佐吉の石造物の殆どは、大坂住人となってからのものです。