★飛鳥京観光協会主催 「日本初の女帝”推古天皇”の生涯をたどる」 3/29

 正月に橿原神宮へ初詣ウォークに行った直後の1/15に、全国トップニュースで流れた「小山田(こやまだ)遺跡発見」の報道は、世間の大きな関心を呼びました。なにしろ、飛鳥・石舞台古墳よりも大きな規模の古墳ということなので、考古学ファンならずとも騒ぎ立てるのは当然でした。TVや新聞では第34代・舒明(じょめい)天皇の墓ではないかと報じられましたが、小生は1/17付の当ブログにて「蘇我蝦夷(そがのえみし)」の墓ではないかと、自分なりの推測を述べました。今回のウォーク・テーマは”推古天皇”ですが、コース途中では甘樫丘に登り、この小山田遺跡を上から眺められそうなので、古代史ファンの親友と連れ立って、ウォークに参加しました。

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 近鉄・飛鳥駅前に各地から参加者が集結。天気予報は雨とのことで、主催者の人も「雨の予想のなか、多くの人たちに参加していただき有難うございます」と、喜んでおられました。

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 飛鳥の住人曰く、山に雲がたたなずむ、このような光景が一番飛鳥らしくて好きなんだそうです。

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 吉備姫王檜隈墓(きびひめのみこ ひのくまのはか)。この墓を訪れる人たちの目的は、墓(古墳)よりも、墓の柵の内側に並べられた「猿石」と呼ばれる花崗岩の4体の石像にあるようです。飛鳥には謎の石造物が数多く存在して、今も古代史ファンの想像を掻き立てています。

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 吉備姫王墓のお隣は、第29代・欽明(きんめい)天皇陵です。欽明天皇陵は本日のコース最後で見られる丸山古墳が本当の墓であるとの説もあります。この辺りで、予報通り、雨が降り出してきました。

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 推古天皇関連の蘇我家の系図です(ウィキペディアより)。推古天皇は、この欽明天皇を父親とし、蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ=蘇我稲目の娘)を母親として生まれました。蘇我馬子は叔父、蘇我蝦夷は従兄弟、舒明天皇は義理の従兄弟に当たります。推古天皇は、天皇になる前は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と呼ばれ、兄である第30代・敏達天皇と結婚し(この時代にはよくある異母兄弟同士の結婚です)皇后となります。しかし夫の敏達がなくなり、弟の第31代・用命天皇、異母兄弟の第32代・崇峻天皇も相次いで世を去り、叔父の蘇我馬子に請われて第33代・推古天皇となり、初の女性天皇が誕生しました。この時、推古は39歳でしたが、頭の切れた賢い人で、馬子の言いなりにはならず、弟・用命天皇の忘れ形見であった甥の聖徳太子(当時19歳)を皇太子に迎え、共に国政を行い、飛鳥文化を現出していきました。

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 コース途中にある鬼の雪隠や鬼の俎板にも立ち寄りました。後方、雲に隠れている山は、多武峰(とうのみね)山系の御破裂(おはれつ)山。中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏打倒の密議を語らった山で、談山(たんざん)と呼ばれます。また、この山に祀られた鎌足の墳墓は、国家に大事ある時には鳴動した、という伝承から御破裂山とも言われました。

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 甘樫丘(あまかしのおか)山麓を巡ります。甘樫丘一帯は蘇我氏の領地で、飛鳥川が流れる山麓東側の甘樫丘東麓遺跡の中から、7世紀前半の建物(倉庫)跡が見つかりました(2008年)。日本書紀に記述のある蘇我邸の兵庫(つわものぐら=武器庫)とみられ、7世紀半ばに無くなったことなども判明したため、一帯が蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅だったことがほぼ確定しました。

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 甘樫丘に登ります。山桜が咲く頂上から西北を展望。左端に畝傍(うねび)山、右の傘を差した人の上方に霞むのが耳成(みみなし)山です。展望後は、いったん山を下ります。

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 下山後は、明日香村埋蔵文化財展示室を見学し、雷丘(いかづちのおか)を経て、向原寺(こうげんじ)に立ち寄りました。日本書紀によると、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、欽明天皇13年(552)で、その仏像は蘇我稲目が、自分のムクハラ(向原)の家に祀ったと云われていています。しかし、その後、悪疫が流行し、廃仏派の物部氏や中臣氏らが、これは日本の神の祟りだと奏し、仏像は難波の堀江に投げ捨て、寺は焼き払われました。

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 推古天皇は、この蘇我稲目の邸宅跡に 豊浦宮(とゆらのみや) を造りました。592年、この豊浦宮で、推古天皇は即位しました。その後、603年に 小懇田宮(おはりだのみや)に移られたため、豊浦宮は豊浦寺となりました。向原寺の境内から豊浦寺講堂跡と推定される版築の基壇が検出され、この基壇の下層には石敷と掘立柱建物の跡が確認され、豊浦寺は豊浦宮の跡に建立されたことが確認されました。つまり、ここは、蘇我稲目の向原の家→豊浦宮→豊浦寺→現在の向原寺へと移り変わりました。

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 ところで、昨日(4/5)から始まった 長野・善光寺の御開帳、七年に一度の御開帳だとか。善光寺縁起によりますと、推古天皇10年(602)に、信濃の国の本田善光が国司に伴って都(飛鳥)に参った折、たまたま難波の堀江にさしかかると、「善光、善光」と呼ぶ声がどこからともなく聞こえてきました。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く仏像が出現したので、善光はそれを信州へ持ち帰りました。それが現在、善光寺の秘仏本尊・一光三尊阿弥陀如来像だと云われています。その「難波の堀江」と云われる池が、この豊浦宮跡にある池です。
 
注 : 難波の堀江と呼ばれる所は、飛鳥以外にも、地名通り大阪市にもあって、本田善光がどちらで拾い上げたかの論もあるようですが、大陸から日本に持ち込まれた最初の仏像が、欽明天皇から仏教派の蘇我稲目に贈られ、稲目が自宅(向原寺)でこれを祀っていたのが、廃仏派の物部氏たちに家を焼かれ、仏像も投げ捨てられたことからしても、この飛鳥・豊浦宮跡に残る池が「難波の堀江」と考えるのが妥当でしょう。

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 再び甘樫丘に登り、西南端の高台から奈良県立飛鳥養護学校を見下ろします。

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 校舎に囲まれた真ん中の校庭から、とてつもない古墳跡が見つかります。これが小山田遺跡です。現在は立入禁止となっており、遺跡の外観は全く見えず、この甘樫丘の上から場所が確認出来るだけです。個人的にガイドの人に尋ねてみると、ガイドさんも舒明天皇でなく蘇我蝦夷ではないか、と私と同じ意見でした。しかし、天下の橿原考古学研究所(橿考研)が「舒明の墓である可能性が高い」と公言したものですから、これを覆すのは並大抵なことではありません。すぐ近くには菖蒲池古墳があります。この古墳も被葬者は不明ですが、7世紀中頃の築造であり、一帯が蘇我氏の領地であったことから蘇我一族の古墳ではないかと云われています。こうした土地事情からも、小山田遺跡も蘇我蝦夷のために造られつつあった古墳であろう、と云う実感を強くしました。

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 そのあとは、推古天皇と子息の竹田皇子の二人を葬ったと云われる植山古墳に立ち寄りました。発掘調査で、東西に並ぶ2つの横穴式石室が確認されています。推古天皇は夭折した息子の墓に合葬してほしいと遺言して、ここに埋葬されましたが、後に、帝王にふさわしい規模の陵墓が必要ということで、河内の磯長谷に新しい陵墓(山田高塚古墳)が造営され、2人の遺骸は、そちらに移され改葬されました。中継ぎのつもりで即位したのに、亡くなるまで約25年間、大きな問題もなく政治を遂行した推古天皇は、やはり名実伴った女帝だったと言えます。

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 全長318mの奈良県最大(我が国第6位)規模の 丸山古墳。 被葬者は欽明天皇とか蘇我稲目とかの説があります。横目で見るだけにして、近鉄・岡寺駅へと雨の中を早足で向かい、解散・ゴールとなりました。

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 コース概略:近鉄・飛鳥駅(スタート)→吉備姫王墓→欽明天皇陵→鬼の雪隠・俎板→甘樫丘川原駐車場→甘樫丘頂上展望台→万葉の植物園路→甘樫丘豊浦休憩所(昼食)→明日香村埋蔵文化財展示室→雷丘→豊浦宮跡→甘樫坐神社→甘樫丘川原展望台→小山田遺跡眺望ポイント→春日神社→植山古墳→八咫烏神社→丸山古墳→近鉄・岡寺駅(ゴール)。本日の歩程 9.4km でした。