★シルバー健康ウォーク1月例会 「新選組ウォーク」 1/8

 今年最初の例会は、私の大好きな「新選組」を訪ね歩きます。午前10時、JR京都駅からスタートです。

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”事あらば われも都の 村人と なりてやすめん 皇御心(すめらみこころ)” 新選組局長 近藤勇
 京都駅のすぐ近く、堀川通塩小路を少し下がった所、リーガロイヤルホテル京都の入口前に建つ近藤勇の歌碑です。近藤の和歌?と驚かれるかも知れませんが、武士が和歌等を詠むのは当たり前のことで、土方歳三も和歌や俳句を沢山残しています。新選組は京都(孝明天皇)の治安を守る、幕府直轄の警察部隊(精鋭武士集団)です。後世には勤王の志士なんておだてられた薩長の人斬り脱藩浪人たちとはわけが違います。それはさておき、何故リーガロイヤルホテル前に近藤勇の歌碑が建てられているのでしょうか? 新選組は当初(文久3年=1863)から壬生(みぶ)の八木邸を中心に屯所を構えましたが、人数が増え過ぎたので、慶応元年(1865)2月には、西本願寺(太鼓楼と西集会所)へ屯所を移します。しかし、ここは防備面に難があり(加えて本願寺は長州藩と縁が深かったこともあり、寺の方から出て行ってほしいと暗に要望したようで)、慶応3年(1867)春には不動堂村と云われる場所へ屯所を移します。賢い土方歳三は、本願寺と交渉し、新屯所の建築費用をすべて負担させています。ここは約1万㎡という広大な屯所で、一度に30人が入れる程の大きな風呂も備えていたそうです。しかし、この時、思いもかけぬ「大政奉還」となり、薩長を中心とした倒幕勢力が起こした政変「王政復古の大号令」が発せられ、世の中は一転します。新選組は僅か6か月で 不動堂村屯所 を出て、伏見奉行所へ転出、鳥羽伏見の戦いへと突入していきます。この3番目の「不動堂村屯所」の場所が今となっては明確でなく、①リーガロイヤルホテルあたり、②ハトヤ瑞鳳閣(ずいほうかく)あたり、③不動堂明王院あたりと、と諸説ありますが、3つとも、大雑把には同じような地域です。
という訳で、今回はリーガロイヤルホテル前の近藤の歌碑が置かれている所を、不動堂村屯所跡として訪ねました。不動堂村屯所は、七条通から塩小路通りにかけて~洛中の南西に~あったことは確かです。

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 伊東甲子太郎(かしたろう)殉難の碑。伊東は元治元年(1864)10月に、同門の藤堂平助の仲介で、上洛して新選組に加盟、参謀職と云う破格の待遇を得ます。伊東の新選組入りは、参謀の地位を利用して、組を手土産に薩長に取り入るためだったようですが、新選組内では近藤・土方の基盤を揺るがすことは出来ず、次第に討幕思想に傾き、3年後の慶応3年(1867)3月には新選組を離脱し、御陵衛士(ごりょうえじ)を組織します。討幕を進めるため近藤勇の暗殺を企てますが、その計画を察知した新選組は、逆に同年10月伊東を呼んで近藤自らが接待を行います。伊東はその夜、帰宅途中に、この油小路の 本光寺門前 にて新選組隊士・大石鍬次郎(くわじろう)ら数名により殺されてしまいます(殉難なんて言い方自体が、明治政府が一方的に自分たちを美化している不愉快な表現です。悪だくみを意図した策士が返り討ちにあっただけです。策士、策におぼれる典型の事件でした)。

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 天満屋事件跡の石碑。坂本龍馬(海援隊)が借用した「いろは丸」が、瀬戸内海で紀州藩の「明光丸」に衝突し沈没した「いろは丸事件」。いろは丸にも非があったとも言われていますが、龍馬がありとあらゆる画策を用いて、結果、膨大な賠償金を、紀州藩に支払わさせてしまいます。その半年後に坂本龍馬が暗殺されると、龍馬暗殺の黒幕は紀州藩であるとみた土佐藩・海援隊士たちは、紀州藩公用人・三浦久太郎の殺害を計画します。計画の首謀者は紀州藩出身ながら藩内の政争に敗れ、江戸に逃れ討幕派に変わり海援隊に入っていた陸奥陽之助(後の明治政府で外務大臣になる陸奥宗光)でした。それを察知した紀州藩は会津藩を通じ、三浦の護衛を新選組に依頼します。新選組は警護しやすいように、西本願寺近くの旅籠・天満屋を三浦の宿舎とし、組きっての剣の使い手、斎藤一(はじめ)と大石鍬次郎が三浦の護衛につきます。
 慶応3年(1867)12月7日は雪の降る底冷えのする寒い夜で、三浦や斎藤たちは部屋でひっそりと酒を飲んでいました。陸奥に率いられた海援隊士たちに十津川藩士・中井正五郎も加勢し、天満屋を襲撃、中井が真っ先に飛び込み、三浦に斬りかかります。三浦は頬に傷を受けるも難を逃れ、近くにいた斎藤が中井を斬り倒してしまいます。これを機に新選組と海援隊双方が入り乱れての大乱闘となったのが天満屋事件です。首謀者の陸奥は闇夜とドサクサに紛れて逃げ出してしまいます。この事件からひと月も経たないうちに鳥羽伏見の戦いが始まりますので、この事件が、新選組の京都・洛中での最後の戦いとなりました。明治以降に建てられた碑には、暗殺を計画し襲撃した非のある討幕側の死者・中井を「勤王之士・贈従五位、中井正五郎殉難之地」と刻銘されています。先の伊東甲子太郎らも同様で、京都周辺にある維新関連の史跡は、殆どが「勤王志士・殉難之地」と美化・称賛した石碑に仕立てられています。「勝てば官軍」の薩長が、いかに自分たちを正当化しようとしたかが露骨に見られます。蛤御門の戦い(禁門の変)で、御所(孝明天皇)に向けて大砲や銃を撃ちこんだ長州藩。日本の長い歴史の中で、天皇や皇室に銃矢を向けた武士は誰一人としていません(天皇や法皇が対立した代理戦争はありますが、いずれの場合も天皇や法皇が危害にさらされることはありませんでした)。その長州藩が皇居(天皇)を銃撃しながら、勤王を名乗るとは何をかいわんです。単なる討幕派だったに過ぎません。ちなみに蛤御門の戦いで負けた長州藩は、腹癒せに京都の町に放火し、3万軒の町屋を焼け野原にして、逃げ帰りました。しんがりを務めた真木和泉守ら17名は、会津藩や新選組に追い詰められて、逃げ切れず、京都・山崎で自害します。しかし、ここにも「十七烈士の墓」と云う碑が建てられました。御所を銃撃し京都に放火した大罪人たちも「烈士」と美化したのは、すべて長州藩が牛耳った明治政府の仕業です。明治維新を振り返るとき、残された記録や文献や石碑等に惑わされては、決して歴史の真相は見えて来ません(すべての歴史は勝者が都合のよいように作リ直したものに過ぎません。心すべしです)。

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 西本願寺に立ち寄り、御影堂(国宝) や阿弥陀堂(国宝)などの外観を見た後‥

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 西本願寺の北東角に建つ 太鼓楼(たいころう:重文) を訪ねました。北集会所と太鼓楼が 新選組2番目の屯所 です。北集会所は明治6年(1873)、姫路の本徳寺に移設されたため、現在の本願寺に新選組の足跡が見られるのは、この太鼓楼だけです。

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 江戸の吉原と並ぶ京の島原。遊興の地への入口だった 島原大門 です。

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 島原には、太夫や芸妓を抱える置屋と呼ばれた遊郭は、もう1軒も残っていませんが、揚屋(あげや=今で云う料亭で、太夫や芸妓は置かない)が2軒残っています。その一つである 角屋(すみや) です。ちなみに、江戸の吉原には揚屋がなく、置屋だけで完全な遊郭でしたが、島原は豪商や文化人(和歌や俳人)たちの交流の場でもありました。

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 角屋は遊郭ではないので、吉原の牢屋のような格子造りではなく、外観は京の町家の形態を残しています。幕末には、新選組の幹部クラスの宴会もよく行われましたし、薩長側も同様に利用していましたが、ここでは池田屋のような乱闘は一切ありませんでした。

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 角屋の前に建つ石碑を2つ。左は「長州藩志士・久坂玄瑞(くさかげんずい)の密議の角屋」の碑。ここでも志士と余分な文字が付けられています。長州の久坂玄瑞は薩摩の西郷隆盛と軍用金調達のため、時の豪商を招いて角屋で密議をしていたと云う石碑です。のにち有名?となった人たちが、新選組に見つからぬように(秘密裏に)来て、食事をしながら話し合った場所と云うだけの碑です。こんなことで碑を建てていたら日本中が石碑だらけになります。明治政府の意図を組んだ碑でしかありません。右は「新選組刀傷の角屋」の碑。私は角屋の内部を見学したことがありませんが、角屋の屋内には何ヵ所か刀傷の跡が残っているそうです。別に乱闘(斬り合い)があったわけでもなく、酒に酔っ払った芹澤鴨などが柱や樹木などを斬りつけた時の刀傷跡だそうです。
 ちなみに、芹澤鴨は、文久3年(1863)9月18日、この角屋で行われた新選組局長クラスの宴会に出席し、その夜のうちに、壬生の屯所(八木邸)で暗殺されました。芹澤鴨と一緒に殺された芹澤の腹心・平山五郎ともども、オモテ向きには長州藩士による暗殺死とされて、新選組による葬式が行われましたが、ご承知のように、芹澤は酒乱で、酔うと乱暴狼藉を働き、手に負えず、組にも苦情が多く寄せられていて、新選組にとっては目の上の瘤(こぶ)的な存在だったのです。土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助らが、大雨が降る深夜に、飲酒後に愛妾と寝ていた芹澤らを始末したと云うのが真相です。 <だらだらと長くなりましたので、続きは後日に>