★近鉄フリーハイク 「大和郡山三つの城跡めぐり」 2/12

 「酒蔵巡り」も殆どの酒蔵は過去に何度も訪問済みで新鮮味がなく、飲み友達でもある親友が入院中とあって、この冬は狛犬や歴史遺跡を主として巡り歩いています。今回予定された大和郡山の3つの城跡のうち、筒井城跡にはまだ訪れたことがなかったので、参加してみました。

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 9時30分、スタート地点の近鉄・筒井駅で下車。改札口を出た所でウォーク仲間2名と遭遇、コース地図を受け取り、3名一緒で歩くことにしました。駅からすぐ近くの所に第一番目の城跡・筒井城跡 がありました。石碑と案内板がなければ、単なる平地でしかありません。筒井城は名前の通り、筒井順慶の主城でした。詳細は割愛しますが、戦国時代、大和では松永久秀と筒井順慶が攻防を繰り返していましたが、織田信長の支援を受けた松永久秀に筒井城を攻め取られてしまいます。しかし、順慶の力量を見抜いた明智光秀の仲介で、順慶は信長に帰属し、大和の守護として筒井城に返り咲きます。信長は「大和の城は郡山城1つに集約する」として、この筒井城や多聞城などは取り壊されてしまい、順慶は郡山城に居を移します。一方、松永久秀は信長に刃向かい、信貴山城の戦いで自害してしまいます。

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 市街地を歩くこと40分程で、第2番目の城跡・小泉城(片桐城)跡 です。小泉城は室町時代、興福寺衆徒であった小泉重弘の居館として建てられたようです。10数年後には、小泉氏は筒井順慶の先祖・筒井順永に攻められ、落城してしまい、その廃材は筒井城の柱などに利用されました。時は移り、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)、「賤ヶ岳七本槍」の一人として著名な片桐且元の弟・貞隆が1万5千石で大名となり、元和9年(1623)に小泉に入り、ここに陣屋を構えました。そのため片桐城とも呼ばれ、明治維新まで片桐氏の統治が続きました。

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 慈光院 は、寛文3年(1663)大和小泉藩二代目藩主・片桐石見守貞昌(石州)が、初代藩主である父・貞隆の菩提寺として、京都・大徳寺の玉舟和尚を迎えて建立した臨済宗の寺です。石州は石州流茶道の祖であり、寺というよりは茶室の性格が色濃く出ています。禅宗特有の静かな石畳の参道の先にある 山門(茨木城楼門) です。石州の出生地・摂津茨木の城は、徳川家康の発した一国一城令により取り壊されることになり、その門を貰い受けて、屋根を書院と合わせて茅葺きに葺き替えて、慈光院の山門とされました。作家・志賀直哉が好んだ門です。

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 山門から見た、慈光院の中心的建物・書院(重文)です。外観は田舎の農家風の茅葺き入母屋造りです。拝観は有料なので部屋には上がっていませんが、写真で見ると、上の間、中の間、下の間の3つからなる壮大な素晴らしい建築物です。

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 奈良盆地の真ん中を歩きます。田畑の向こう(西)に見えるのは矢田丘陵。

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 大和郡山市は金魚の名産地です。この辺り一帯に見られる養魚池群。

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 その中の 郡山金魚資料館 に立ち寄りました。

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 金魚の歴史などを学びました。金魚が日本に初めて渡来したのは足利時代の文亀2年(1504)頃ですが、日本は動乱の真っ最中で繁殖させることが出来ませんでした。天下が安定した徳川時代の元和2-5年(1616-19)に再渡来したものが繁殖して、現在に至っているそうです。このあと金魚水族館で、日本固有種のらんちゅう・津軽錦・出雲なんきん・土佐錦・玉サバ・東錦などの貴重な金魚を沢山見せてもらいました。

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 11時50分、第3番目の城跡・大和郡山城 に到着。筒井順慶のあと、豊臣秀吉の弟・大和大納言・豊臣秀長が城主となり、100万石の城下町として発展します。豊臣滅亡後は柳沢吉里が甲府城から転封されてきて明治維新まで柳沢藩の統治となりました。ここで3人と昼食としました。12時30分、近鉄・郡山駅の手前でゴールとし、友人たちと別れました。ここまでの歩程 10.4km でしたが、まだ昼を過ぎたばかりでしたので、一人で「西の京」を巡りながら、JR奈良駅まで歩くことにしました。 <続きは明日に>