★なら観光ボランティアガイドの会 「もっと知りたい 門のこと!転害門の魅力」 3/27

 奈良については、個人的に色々調べてみたいことがあります。例えば、奈良市内を流れる「率川(いさがわ)」です。江戸時代の地図には明解に描かれているこの川も、現在は都市整備などで道路になってしまうなど、殆どが暗渠(あんきょ)化され、どのように流れていたのかよくわかりません。猿沢池からJR奈良駅辺りまでは何回か調べ歩いたのですが、その前後は未確認です。また「奈良奉行」も同様に興味があります。江戸時代は今の奈良市は(当時は奈良町と呼ばれていましたが)京都市などと同様に、徳川幕府の直轄地でしたので、町奉行の役割や実績がどのようなものだったのか興味を持っています。先日「近世の奈良と奈良町奉行」という講演会があったのですが、あいにく都合がつかず、参加することが出来ず、とても残念でした。今回は「門」についての予約制の実地見学会でした。奈良に限らず、歴史遺跡を巡り歩く際に、出会う建造物にまつわる”門”について、いろいろ学べる企画でしたので、早々に申し込んでおきました。

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 当日は、奈良県庁前に「13時集合、受付は12時30分から行います」ということで、JR奈良駅からゆっくりと歩いて、12時50分頃に到着しました。スタッフ以外、余り参加者が見当たらず不思議に思っていたら、12時半からの受け付けが終了した人たちから順々に、10数人づつの班になって、既に出発済みでした。私は7斑となり10数人集まった時点でスタートとなりました。このあとの8斑が最終組だったようです。本日は12の門を訪ね歩きます。

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 興福寺境内に入り、五重塔(国宝)から南大門跡に向かいます。

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 本日1番目の門、再建中の中金堂の南側にある 興福寺・南大門跡 の基壇です。

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 興福寺の伽藍は11-18世紀にかけて、たびたび戦火等で焼失しては再建されてきました。南大門は、中金堂と共に7度被災していますが、江戸時代の享保2年(1717)の焼失後は再建されることはありませんでした(中金堂は、現在300年ぶりに再建中で平成30年10月に完成予定です)。焼失前の 南大門の形式は「二重門」で、門の両脇には金剛力士像が祀られていたそうです。ガイドさんが掲げられているのは、二重門の説明用写真(朱雀門)です。奈良時代には、この南大門に「月輪寺」という山号の扁額が掲げられていましたが、色々な災いがあり、扁額を取り外したら、その後何も起こらなかったそうです。その扁額を埋めた所に「額塚」の石碑が残されています。ちなみに、ガイドさんの後方(南大門の前庭)に柵を巡らされている所が「般若の芝」で、鎌倉時代以降、毎年ここで「猿楽→薪御能」が行われてきました。芝生の上で演じられたので「芝居」と呼ばれるようになりました。現在は芝生の上に敷き舞台を設営して演じられています。

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 興福寺と猿沢の池の間の三条通りに面して設置されている 植桜楓(しょくおうふう)之碑 です。幕末の弘化3年(1846)から嘉永4年(1851)までの5年間、奈良奉行を務めた豊後藩士・川路聖謨(かわじとしあきら)は、社寺を多く抱えた古都の美しさを維持していくことが、奈良の将来には欠かせないと、奈良公園や佐保川堤防などに、私財を投じて桜や楓の苗木を沢山植えました。まさに現在の観光・奈良を見通した識見でした。ちなみに、川路は幕臣として、江戸開城の報を聞き、滅びゆく幕府に殉じて自決しています。

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 第2番目の門、菊水楼・表門 です。形式は本柱2本の後ろに控柱2本を持つ「薬医門」です。奈良を代表する料亭の表門は、もと円成寺塔頭にあったのを明治時代に移築したものです。この塔頭が楠正行(くすのきまさつら)にゆかりがあり、楠家の家紋である菊水の文字を取り入れ「菊水楼」と名付けられました。

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 余談を一つ。菊水楼から春日大社一の鳥居へ向かう途中に、興福寺・菩提院大御堂(通称:十三鐘)があります。江戸時代、このお堂で三作と云う13歳の少年が手習いをしていました。そこへ庭先から一頭の鹿がやってきて、置いてあった大切な草紙(習字の半紙)を食べてしまいます。追い払うつもりで三作が文鎮を投げたところ、鹿の急所(鼻)に命中し、鹿は死んでしまいます。春日大社の神鹿を殺した者は ”石子詰め(いしこづめ)の刑” に処せられる のが昔からの決 りであり、幼い子供であっても鹿を殺した罪は免れませんでした。母一人・子一人だった三作の母親は、気が狂わんばかりに悲しみ、許しを乞いましたが許されませんでした。三作の年齢13に合わせて、一丈三尺(約3m)の穴を掘り、三作を死んだ鹿と抱き合わせにして、その穴に入れ、頭の上からムシロを被せ、上から小石や砂利を入れて生き埋めにしました。その後、三作の母親は、死んだ我が子の霊を弔う為に、明けの七つ時(午前4時)と、暮れの六つ時(午後6時)に鐘を撞いて(七つ時と六つ時で十三鐘と云われた)供養に勤めたところ、49日目に観音様が現れました。その観音は現在、大御堂内に稚児観世音として安置されています。子を思う母の一念、せめて自分が生きている間は線香の一本も供えることが出来るが、自分がこの世を去れば三作は鹿殺しの罪人として誰一人香華を供えて下さる方はないと思い、母親は供養に紅葉の木を植えました。この伝説が花札などでお馴染みの「鹿に紅葉(もみじ)」の取り合わせの元となりました。また、この十三鐘を近松門左衛門が世話浄瑠璃「十三鐘」として発表し、この出来事は後の世まで有名になりました。

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 第3番目の門は、春日大社一の鳥居 です。神社の鳥居は、神を祀る空間と人間の空間を繋ぐ一種の門といえます。広島の厳島神社、敦賀の気比神宮の鳥居と並んで、日本三大木造鳥居と云われています。

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 一の鳥居をくぐり、参道から逸(そ)れて、奈良国立博物館の敷地に入ります。第4番目の門、春日大社・楼門跡 です。礎石だけが残っています。天智天皇8年(669)に創建された藤原氏の氏寺・興福寺と、神護景雲2年(768)に藤原氏によって創始された春日大社とは、いつしか神仏習合の流れの中で一体化していきました。ここは春日大社五重塔への入口でした。

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 春日大社五重塔 は、東塔と西塔の2つが建てられました。写真は 西塔跡の礎石群 です。立入禁止地帯で、鹿たちがのんびりと休憩していました。五重塔の規模は、最初に立ち寄った興福寺の五重塔と同規模だったと云いますから、これが2つも建っていたのは素晴らしい景観だったに違いありません。奈良国立博物館に収蔵されている室町時代に制作された「春日社寺曼荼羅」には、春日大社の この2つの五重塔が描かれています → こちら

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 曇ったり晴れたりの妙な天候でしたが、訪ね歩いていると暑さを感じてきます。奈良国立博物館前の池で水を飲んでいた鹿。つられて私もお茶を飲みました。奈良では今も、鹿は神様のお使いとして大事にされていますが、交通事故で怪我をしたり命を落とす鹿は後を絶ちません。鹿には苦難の世の中となりましたが、運転者は昔の三作のように死刑に処せられるようなことはない世の中となっています。

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 第5番目の門、鴎外の門。森鴎外が帝室博物館の総長に任命され、正倉院宝物の虫干しの際、立会人として参列した時に宿舎とした家屋があった所です。今は門だけが残っています。

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 鴎外の門から交差点を渡ると大仏殿への参道で、右手は奈良公園です。奈良公園越しに見た御蓋山(みかさやま=三笠山)、春日山、若草山です。

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 東大寺・大仏殿への参道。春休みの日曜日とあって、観光客で大混雑でした。 <続く>