ボランティア・ガイドさんの説明を聞きながら、奈良市内の色々な”門”を訪ね歩いた、後半です。

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 第6番目の門、東大寺・南大門(国宝)。五間三戸の「二重門」形式の門で、高さは25.5m、桁行28.8m、梁行10.8m、直径1m・長さ19.2mの柱18本の、わが国最大の山門です。天平時代の創建時の門は平安時代に大風で倒壊し、現在の門は鎌倉時代に再建されたものです。ちなみに、「二重門」形式とは二階建ての門のことで、各々の階に屋根が付いているもの云います。二階建てだが一階部分は縁だけで屋根がなく、二階部分にだけ屋根があるものは「楼門」と呼ばれます。 ㊟ 桁行:正面から見て右端の柱から左端の柱までの長さ。梁行:正面から見て最前部の柱から最奥の柱までの長さ。屋根先端部分の出っ張りは、挿肘木(さしひじき)で支えています。

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 南大門の構造。南大門の左右の1間は南面に金剛力士像が対で置かれ、北面には日本最古の石造狛犬である石獅子が対で置かれています。中央3間が通路となっています。5間ですので柱は6本、それが前・中央・後と三列に並びますので、柱は全部で18本です。南大門は、基本的には柱と貫(ぬき)だけで造られている、至ってシンプルな構造です。貫を多用することで柱と柱を堅牢に結びつけ、非常に優れた耐震性を持たせていることです。これは現代のビルの鉄骨組みにも応用されている工法で、鎌倉時代の技術力の高さと精巧さには、ただただ感心させられてしまいます。

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 柱と貫との関係を模型で詳しく説明を受けました。写真は左右に貫(水平材)が1本、柱を貫通しているように見えますが、実は二本の貫です。下方に前後用の貫がバラバラに置かれているのが見えますように、実際は、柱の中で前後左右の4本の貫が、お互いパズルのように組み合わされ繋がっています。この4本の精巧な組み木で出来た貫を多用することで、柱は一層強固となり、地震や強風にも負けない頑強な建造物となっています。南大門の一番の特徴で、見どころでもあります(但し、柱の中の構造は見えません)。

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 南大門から大仏殿への参道途中で木造船の制作過程が公開されていました。「東アジア文化都市」は、日本・中国・韓国の3ヶ国で、文化による発展をめざす都市を、毎年各国1都市選定し、各都市が行うさまざまな文化プログラムを通して、交流を深める国家プロジェクトです。2016年の日本の担当都市は奈良市で、いろいろなプログラムが計画されていて、その一つが「船をつくるプロジュクト/東大寺」です。昨日(3/26)から船をつくる過程を公開し、4月中旬に完成したら池に浮かべて展示するそうです。船大工さんの見事な鉋捌き(かんなさばき)に惚れ惚れしました。偶然にもこれを見られたのはラッキーでした。

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 第7番目の門、東大寺・大仏殿・中門(重要文化財) です。二階建て建築だけれども、一階部分に屋根がないので、「楼門」形式です。これも南大門同様に、五間ある柱間のうち通り抜けられるのが三間という五間三戸様式です。向かって右の間には兜跋(とばつ)毘沙門天像が、左の間には持国天像が祀られています。 本尊の四方(東西南北)を守護して、四天王を一緒に祀る場合は、持国天、増長天、広目天、多聞天と呼ばれますが、多聞天だけを単独で祀る場合は、毘沙門天と呼ばれます。

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 中門から内部の 大仏殿(国宝) を覗いてみました。境内の桜が満開で、海外の観光客も大喜びでした。

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 第8番目の門、東大寺・勧進所の表門。形式は「高麗門」です。本柱2本の後ろに控柱2本を立てているのは、菊水楼で見た「薬医門」形式と同様ですが、「高麗門」は控柱に屋根が付けられている点が異なります。勧進所は、松永久秀に焼かれた大仏殿の復興のために、公慶上人が全国行脚して勧進に努めるために建てられた寺務所です。

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 東大寺・戒壇堂を囲む 筋塀 と手前の 土塀。大仏殿から東の二月堂に向かう裏参道の土壁や白壁の風景は特に有名で、作家・五木寛之さんなどもお奨めの小道ですが、大仏殿から西の戒壇堂に向かうこの道筋の壁も古都らしい雰囲気が感じられる、私の好きな道です。漆喰が剥げ落ちて中の補強材として挿入されている古瓦が現れてきた土塀と、壁に白い5本の線が入る築地塀(ついぢべい)のコントラストが美しいです。この白線は、定規筋と云い、御所、門跡寺院、高家の家の塀につけられる筋です。その格式の高さにより三本、四本、五本の線があり、五本は最高位の筋塀です。

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 第9番目の門、東大寺・戒壇堂の南門。本柱2本の前後に控柱を4本建てたもので、「四脚門」形式と呼ばれます。戒壇堂は、正しい仏教の教えを広めるために唐(中国)から渡来した鑑真和上が、人々に戒律を授けるために建立したお堂で、現在も僧侶となるための重要な儀式が行われている場所です。

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 依水園前を通り過ぎ、登大路から京街道沿いに北上すると、第10番目の門、東大寺・西大門跡 です。平城京の二条大路に面していて、平城京から東大寺への主入口となっていました。先ほど見てきた南大門クラスかそれ以上の規模の「二重門」形式の大門でしたが、天正11年(1583)の大風で倒壊し、以降再建されずに現在にいたっています。左手奥に大仏殿の屋根が見えています。

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 京街道をさらに北上しますと、第11番目の門、東大寺・焼門跡 です。形式は次に立ち寄る転害門(てがいもん)と同様の「八脚門」でした。平城京の一条南大路と二条大路の間の条間道路に面していて、戒壇堂へと通じる門でした。当時は「中門」とか「中御門」と呼ばれていましたが、慶長11年(1606)に焼失、再建されることなく、以後「焼門」と呼ばれるようになりました。

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 本日最後の第12番目の門、東大寺・転害門(てがいもん、国宝)。数々の天災や戦火をくぐりぬけてきた、東大寺創建当時のままの門です。三間一戸の「八脚門」形式で、天平時代の八脚門で現存しているのは、東大寺の転害門と法隆寺の東大門の2つだけです。天平勝宝元年(749)、大仏建立にあたり、寺の守護神として大分県の宇佐八幡宮から分霊を迎えた際(手向山八幡宮)、転害門から神輿が入り、祭礼が行われたことから、大注連縄が掛けられるようになりました。大注連縄は、餅米の稲藁で作られ、全長約15mあり、近年では4年に1度、秋分の日に架け替えが行われています。大注連縄には、稲藁で作られた〆の子(しめのこ)が5つ取り付けられ、〆の子と〆の子の間に紙垂(しで=四手)が4枚取り付けられています。

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 転害門の見どころ。左上:柱の最上部が、すりこぎの先のように丸くアール状になっています(注連縄の丁度、上のところ)。これが奈良時代の柱の最大の特徴なんだそうです。右上:切妻造の妻面には、珍しい二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)が見られます。左下:ここでも転害門の構造模型を使って詳しく説明を受けました。右下:柱は木が生えていた当時の向きのまま使用されています。伐り倒された当時で樹齢千年近くだったでしょうから、柱になって更に千数百年が経過、随分痩せこけてきて節々が目立ってきましたが、今も頑張って門を支えています。写真家の土門拳さんならずとも、この柱に癒され、魅了される人は数知れず居られます。
 15時50分、この転害門前で見学会は解散となりました。今までにも何度か見聞してきた門でしたが、仲々面白い企画で楽しめました。帰る途中の奈良県庁付近から雨が降り始め、あわてて傘を出したのですが、JR奈良駅に着いた時には雨も上がり、虹が出ていました。本日の歩程 8.1km でした。