寒さに弱いので、本格的に寒くなる前に、出来るだけ歩きに出掛けて、体力・脚力の持久力をつけておきたいと思っています。勿論危険な所、上り下りのハードな所は極力回避するよう気を付けていますが、いつも地元の同じコースばかりでは楽しくありませんので、奈良をあちこち巡り歩いています。奈良公園や春日山原始林にはもう3回も行きましたし、「山の辺の道」や「馬見丘陵」も歩いたところなので、今回は「佐保路・佐紀路」周辺をのんびりと歩いてみました。
★個人ウォーク 「佐保路から佐紀路へ」 11/7
「佐保路」は、東大寺の転害門(てがいもん)を起点に西に伸びる一条通り沿いに、聖武天皇陵→興福院→不退寺→法華寺へと続く道です。「佐紀路」は、「佐保路」の続きとも云える道で、法華寺→平城京跡→秋篠寺→西ノ京へと進む道です。本日はその途中区間だけを歩きました。
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奈良市鴻ノ池運動公園から歩きはじめ、尼寺の興福院(こんぶいん)や、中国風の朱色の山門を構える黄檗宗の瑞景禅寺などを見ながら、狭岡(さおか)神社に立ち寄りました。祭神は天神八座となっていますが、本当の祭神は佐保姫神とする説もあります。

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境内にある狭穂姫伝承地の碑。狭穂姫(狭穂毘売)は記紀によりますと、第11代垂仁(すいにん)天皇の最初の皇后でしたが、兄の狭穂彦王(狭穂毘古)から「おまえは夫と私とどちらが愛おしいか」と問われ、「兄の方が愛おしい」と答えると、短刀を手渡され天皇を暗殺するように言われます。眠った天皇に短刀を振りかざそうとしますが、夫がフビンと思わず涙をこぼし、その涙で天皇は目覚めます。狭穂姫は暗殺未遂の顛末を天皇に述べた後、兄の元へと逃れてしまいます。天皇は兄の館を攻めますが、姫の腹には天皇の息子が宿っていました。天皇は姫と子供は何とか助けだしたいと思いますが、狭穂姫は生まれた子供だけ天皇に渡すと、炎の中で兄に殉じてしまいました。いわゆる「狭穂彦王の叛乱」と云われる事件でした。この辺りは狭穂彦王の領地でしたが、天皇に刃向ったことから、兄妹ともに墓もなく、伝承だけが残っています。
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狭岡神社から更に進むと、佐保路の高台からは、奈良市東部方面の、若草山、春日山、御蓋山(みかさやま)、更にその右手には高円山(たかまどやま)がスッキリ見渡せました。
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不退寺。正しくは、金龍山不退転法輪寺と云います。
第51代・平城天皇が譲位してのち隠棲し「萱の御所」と称した所で、第54代・仁明天皇(にんみょう)から勅願を受けた在原業平(なりひら)が開基したと云われる寺で、その由緒から「業平寺」とも呼ばれます。この南門は、鎌倉時代末期、正和6年(1317)の建立で、重要文化財となっています。
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不退寺から国道24号線を横切ると、ウワナベ(宇和奈邊)古墳 です。全長205mの前方後円墳です。宮内庁によれば、被葬者は第16代仁徳天皇の後の皇后・八田皇女となっていますが、詳細は不明で、正式の陵墓でなく、陵墓参考地となっています。
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仁徳天皇の先の皇后・磐之媛命(
いわのひめのみこと)陵への参道彼女が熊野に遊びに出た隙に、多情な天皇が八田皇女を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京田辺市)に移り、天皇からの迎えにも応じず、同地で没しました。磐之媛命が没したあと、仁徳は八田皇女を皇后に迎えました。磐之媛命の墓が、彼女が没した京田辺市でもなく、彼女の出自である葛城でもなく、夫・仁徳天皇の墓がある堺市でもなく、彼女が最も憎み嫉妬した八田皇女の墓(ウワナベ古墳)と同じ地で、隣接しているのは何とも不思議なことです。
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磐之媛命陵。ヒシアゲ古墳とも云います。宮内庁は、こちらの古墳は磐之媛命陵の正式の陵墓と比定しています。古墳の全景は見えませんが、全長219mの前方後円墳です。このあと、平城宮跡でUターンし、復路は幾分コースを変えながら歩き、旧・奈良ドリームランドの裏手に回りこんで、鴻池運動公園へと戻って来ました。秋晴れの中、気持のよいウォーキングが楽しめました。本日の歩程は 9.6km でした。